内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第36号
特集:乳幼児期の探究I

教育は百年の計
(財)日本教材文化研究財団理事長
東京学芸大学名誉教授

杉山 吉茂

先日、コメディアンの坂上二郎さんが小学生の頃唄が上手で、のど自慢大会にもよく出「のど自慢あらし」と言われていたという話の中で、校長先生がのど自慢大会の予選会があることを知らせてくれ、授業があるにもかかわらず出させてくれたという話をテレビでしていた。授業をサボらせてのど自慢大会の予選に出させるなどもってのほかと思われるかもしれないが、その子の得意なところを認め伸ばして生かしてあげようという校長先生の気持ちも分かる。今なら許されないことではあるけれど、そのくらいのおおらかさが昔の教育の現場にはあった。

いつの頃からかだんだん厳しくなり、教育の現場は窮屈になりすぎているように感じる。心ない教師による事件の影響で、事件が起こることを恐れて、前以っての異常と思われるほどの対応に迫られたり、調査の報告書を作らされたり、教師を監視するかのような親(ある雑誌は「モンスターペアレンツ」と名付けている)への対応、学力低下に対応する活動に対する評価への対応などなど、先生方はこれまでにない数多くの対応に悩まされているようである。

ぬるま湯のようだと言われていた教育界に厳しさが求められ、評価が持ち込まれ、教師の努力と意欲の向上が求められるようになっているが、教育に評価を持ち込むことの弊害にも気をつけなければならない。統一テストを行って学校の評価をし、競わせようとしているが、人間は評価されるものに対応した努力をするということを忘れてはならない。統一テストの点数で評価されるのであれば、その点数を上げる努力をする。

試験で成績が競われ、習熟への関心が強くなると「わけが分からなくても覚えておきな」「わけが分からなくても練習しな」というような学習指導、詰め込みとドリルに頼る指導が横行するようになることが心配である。ドリルによって習熟度が増せば、テストの点数は上がる。点数が上がれば、教育の効果が上がったと考えられるかもしれない。しかし、それは真の学力ではない。付け焼き刃的な学力で、将来の伸びが期待できる学力ではない。教育の効果を狙って行われている教育評価が、長い目で見たら、学力の低下を招くことに手を貸していることになりかねない。

よく「小学校の頃の算数はよくできたけど、中学校の数学は分からなくなった」「中学校まではよくできたけど、高校に行ったらできなくなった」と言われるのを聞くことがある。数学が難しすぎるからだとか、中学校、高校の先生が悪いからだという人もいるが、そうではない。原因は、算数・数学の学ばせ方にある。わけが分からなくても、意味が分からなくても、まる覚えに頼る学習をしたから、あるいは、そうさせたことに原因がある。幼い子どもはわけが分からなくてもまる覚えで記憶することができるので、わけが分からなくても、強い記憶力と、習熟のための練習によって試験でよい成績をとることも可能である。しかし、論理的な思考力が育ってくる中学生になると、記憶力が落ちてき、わけが分からないことは覚えづらくなる。また、わけが分からず覚えてきたことは役に立たない。「分かる」ことによって忘れにくくなるし、忘れても思い出すことができ、その知識が使いものになるのであるが、そうなっていない。それが数学ができなくなる原因である。

教育は、将来に生きる力を育てる教育、長い目で見た立場に立った教育でなければならない。教育は、百年の計である。「一年の計を立てるなら稲を植えよ」「十年の計を立てるなら木を植えよ」「百年の計を立てるなら人を育てよ」と言われる。

教育の評価についても、長い目が必要である。ところが、今の評価は、稲を植えるにしても、芽が出たところでいじられ、葉が伸びるといじられ、穂が出始めたらいじられというような評価のようである。雑草や害虫への対応はしても、芽や葉や穂をいじるべきではない。手を加えず伸ばしてやることが大切である。今、教師の一挙手、一動作に文句をつけるような親や管理者が出ているようであるが、百年の計である教育を、目先のことをうまく処理する仕事と同じにようにすることを教師に求めているように思われてならない。目先のことに一喜一憂するような評価をしていると、日本の将来を衰退させてしまうようなことになりかねない。

田中角栄さんは、教育の力を大切に考え、教師の給料を上げ、教師の視野が狭いことを憂えて、海外研修の制度を作ってくれた。そのお蔭で、教育界にすぐれた人材が集まった。しかし、今、教師が自らの視野を拡げ、自己を高めることができる夏休みの期間も教師を学校に縛るようになってきている。

今の状況は、言葉が悪いが、あたかも、教育いじめ、教師いじめをしているようである。そのため、教師という職業への魅力もなくなりつつあるように思われる。その結果、すぐれた人材が教育界に来なくなることが心配される。実際、教員志望の受験生が減ってきているという。優れた人材が得られないと、日本の教育は一層悪くなる。

子どもが将来伸びる教育は、目先の試験にいい成績をとらせる教育ではなく、将来の学習を保障し、世の中で生きて働く知識と智恵を豊かに育てる教育である。知の力は試験のためではなく、21世紀を生きていく力として、これまで以上にレベルの高いものを与える教育が必要である。

それと同時に、世の中で真に成功する人間を育てるためには、「挨拶をする」「靴を揃える」といった基本的な習慣、忍耐力や勤勉さを身につけさせてやることが必要である。そのためには、昔世界で尊敬された武士道精神を伝えることも心掛けたい。戦後見捨てられた教育勅語も見てほしい。私以上の年代は諳(そら)んじさせられてきたのであるが、「父母ニ孝ニ、兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ、恭倹(きょうけん)己(おのれ)ヲ持(じ)シ・・・・」と、今もう一度振り返り、伝えるに値することが述べられている。大切なことに、古い新しいはない。