『〈子供〉の誕生』再読
子供たちが見えない
新しい〈子供期〉の創出と拡充
はじめに
教育という現象は、常に現在形で語られるが、いまほど身近な問題として日常的に取り上げられているときはない。いじめ、自殺、学力低下の問題はもとより、犯罪性を帯びた子供の被害や加害など、枚挙にいとまがないほどである。そこへ、安倍政権による教育再生会議の設置などにより、教育をめぐる問題が更にヒートアップしている。そして、さまざまな思い入れが展開されているのである。
このように、物事が熱っぽく、かつさまざまな思いが交錯しているときには、何よりも冷静かつ客観的に論点を整理し、事態を相対化してみる必要があろう。そこで本稿では、子供をめぐる問題を、歴史・社会・教育等の側面から再考してみることとした。(1)
『〈子供〉の誕生』再読
16世紀ないし17世紀の人間は、私たちがごく当然のこととして受け入れている戸籍届の記入項目を見て、驚くかもしれない。自分の子供が言葉を話すようになると、すぐ私たちは彼らの名前、両親の名前、それにその子供の年齢を覚えさせる。‥‥その年齢をひとに問われて、幼いポールが2歳半だとうまく答えたりすれば、両親はとても誇らしく感じる。
これは、フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』(杉山光信ほか訳 みすず書房 1980年)の一節である。『アンシャン・レジーム期における子供と家族生活』という原著名をもつこの作品は、1960年の刊行で、アメリカの社会学者や教育学者の注目を集めて、パリに逆輸入されたのである。当時のアメリカは、近代教育が行き詰まり、子供と若者の問題に悩み、その活路を求めていたこともあって、この本が話題を呼んだのであった。アリエスは、それまでは無名の「日曜歴史家」であったが、この本をきっかけに、実に65歳にして初めて歴史学者たちに同僚のひとりとして認められたのである。
アリエスは、本書の中で二つの対照的な子供観を示している。一つは、子供への無関心、無配慮、大人と子供の未分化を特徴とする中世的な子供観であり、いま一つは、子供への愛情と教育的配慮、大人と子供の隔離を特徴とする近代的な子供観である。そこから、中世には〈子供期〉は存在せず、16・7世紀になって初めて〈子供期〉が成立したとする。
伝統的な古い社会においては、子供は「小さい大人」として認知され、〈子供〉をはっきり表象していなかった。子供期に相当する期間は乳幼児期に限定され、身体的に大人と見なされると、早い時期から大人たちと一緒にされ、仕事や遊びを共にしたのである。
価値と知識の伝達、つまり子供の社会化も、家族によって保障されていたのではなく、大人たちと混在する徒弟修業等を通してなされていた。子供は大人たちの行うことを手伝いながら、知るべきことを学んでいたのである。換言すれば、感情の交流や社会的コミュニケーションは、家族の外にあって、隣人、友人、親方や奉公人、子供と老人、女性や男性から構成されている極めて熱い「環境」によって保障されていたのである。
ところが、17世紀の末以降、学校が徒弟修業に取って代わった。子供は大人たちから分離されていき、世間に放り出されるに先立って、一種の隔離状態のもとに引き離されたのである。アリエスは、この隔離状態とは学校であり、子供を長期にわたって閉じ込めるこの過程は、今日まで停止することなく拡大し続けており、人はそれを「学校化」と呼んでいるとしている。この隔離は、家庭内での意識に変化をもたらし、童話・玩具・子供服等、子供用の文化が用意されると同時に、親たちは子供の勉学に関心をもつようになる。
こうして、家庭は子供をめぐって組織され、子供を以前の匿名の状態から抜け出させ、保護と愛撫の対象とし始めるのである。
彼はこのように、中世における子供期の意識の不在を指摘すると同時に、子供や家族の意識や感情を近代の所産ととらえる。この研究は、歴史学者や教育学者に大きな衝撃を与え、子供像そのものを根底から覆すものとなった。「子供は純粋無垢な存在ではなかった」という指摘一つをとってみても、子供を保護と監督の対象としてとらえ、愛情というヴェールで暖かく包んでやらなければならないという我々の子供観に、大きなゆさぶりをかけたことは確かである。
とはいえ、彼の子供観の二分法については、多くの論者から疑義や批判も展開された。これに対して、彼は1973年版の序文で次のように述べている。「私の第一のテーゼは伝統的な社会を解釈しようとするひとつの試みであり、第二のそれは今日の産業社会のなかで子供と家族とが占めている新しい地位を示そうとするものである。」と。
しかし、中世の分析が十分でなくても、また〈子供期〉の発見が人類史の普遍的な問題でないとしても、今日の我が国における教育と子供を考えるとき、本書の意義は極めて大きいといえる。
子供たちが見えない
アリエスの〈子供〉の誕生は、近代という時代や社会のあり方と関連していた。ところが、今日の子供をめぐる問題状況は、その近代の破産ないし終焉という時代状況と深くかかわっている。時代や社会の変化に対応した深刻な問題は、いつも子供や教育という弱い面に露呈してくるといえるからである。
我が国の場合、その萌芽は、すでに1960年代に始まっていた。「もはや戦後ではない」とか「一億総白痴化」などの言葉が飛び交った時代である。非行の低年齢化や粗暴化が社会問題化される一方、不登校や低体温児の増加なども指摘されていた。(2)しかし、対策は対症療法に傾き、事象の本質に迫るものではなかった。暴力とか非行とか表向きだれにでも見える行動はともかく、「自閉」や「低体温」に象徴される子供のからだの異変は、既成の理論や大人の感覚でとらえることのできない問題を含んでいたからである。その意味で、子供は、大人の理解や判断を超えたところで悩み始めていたのである。
この「子供が見えない」という視角から問題の把握が行われ出したのは、実は1980年代に入ってからといえる。中村雄二郎「問題群としての〈子供〉」(『魔女ランダ考』岩波書店 1983年)、福島章『幼児化の時代』(光文社 1982年)、「へるめす」編集部「子どもたちが見えない──教育するとはどういうことか」(『世紀末文化を読み解く』岩波書店 1986年)などが話題となった。
このうち福島氏は、若者の生態を、1960年代は「反乱の時代」であり、70年代は「しらけの時代」であり、80年代は、管理社会・情報化社会になって若者の甘えが強く、依存的で、自我の主体性に欠ける「幼児化」の時代になったととらえている。(3)
僅か20数年間の若者現象にしても、このような質の違いが見出せるのである。まさに、時代のテンポの速さや激変の中で、子供は子供なりに悩み、反社会的、非社会的行動に走っているとみることができる。しかも、このような現象や状況への的確な処方箋のないところに、今日の問題をより深刻化させているといえよう。
では、大人の視野から消えた子供たちを取り戻すにはどうしたらよいか。まず、それには、子供の問題は大人とは別の子供の問題だと考える立場を反省することから出発する必要があろう。つまり、大人自身が問われているという認識の確立が大切だと思うのである。我々を取巻くいまの社会や人間を考えていけば必然的に突き当たらざるをえない問題、それが子供の問題にほかならないからである。それはまた、まさに、いままでの日本の教育の原理が問われていることでもある。
こうした基本認識に立って、問題の本質や背景を探るとき、第一に問題とされなければならないのは、幼児期から小学校低学年の時期までの指導についてである。これは、学校と家庭の連携の上に成り立つ問題でもある。
かつて服部祥子氏は、『親と子──アメリカ・ソ連・日本』(新潮社 1985年)を著して、日本の教育の課題を摘出した。特に問題点として挙げた次の7点は、いまでも検討すべき課題といえる。項目のみ列挙してみたい。
(1)子供を取巻く自然の喪失、(2)画一性を重視する学校 、(3)親の自己不全と過干渉、(4)国際的には箱入りの日本、(5)遊びの欠乏、(6)学びの欠乏、(7)情動体験の欠乏
氏は、以上の7点が日本の子供の「未熟性」を生み出しているとし、その源に「経験欠乏症候群」ともいうべき病因が横たわっていることを図化(省略)している。
この「未熟性」を解決するにはどうしたらよいか。そのためには、小学校中学年以降の取組みでは遅いのである。先にも述べたように、家庭との連携のもとに、幼稚園から小学校低学年にかけての教育を充実させる必要があろう。身体的発育もめざましく、好奇心や冒険心が横溢する幼稚園時代に、まず伸びやかに自発性や社会性を育て、小学校入学後にさまざまな体験を組織的、計画的に組み入れていく。そして、学ぶ喜びと生きる自信を身につけさせていく。これこそが幼稚園と小学校低学年を一貫する教育のねらいでなければならない。それはまた、新しい〈子供期〉の拡充にもつながる。
新しい〈子供期〉の創出と拡充
以上の問題を、いま少し掘り下げてみたい。
『〈子供〉の誕生』が訳出されて何ほどの時間も経っていないころ、すでに「子供期の終焉」が話題にされていた。子供が子供らしくあることをやめ、子供と大人の境界があいまいになってきたという指摘である。「かわいがられ、保護される」対象の上限が上昇して、乳幼児から15歳前後までを〈子供〉という呼称の中に封じ込めたのが、いわゆる近代以降の西欧型社会における〈子供の発見〉過程であった。そしてそれは、近代以降の学校教育制度の普及とともに、就学前、小学校、中学校などという学制の区切りによって印づけられるようになった。その結果はどうなったか。
我が国の場合は、特に〈子供期〉の拡大が著しく、「保護され、養育される」期間と層は、高等教育にまで及んでいる。まさに〈子供期〉の肥大である。子供と大人の境界が不明確になり、相互侵犯を繰り返しながら、子供は「子供らしさ」を失い、大人は「子供らしさ」から脱却しきれないでいるのである。その意味で、今日、〈子供期〉は幻想と化したといってよい。先に見た「子供たちが見えない」状況の現出も、「幼児化の時代」の日常化も、このことと無縁ではない。
〈子供〉を発見し、〈子供期〉を創出したのが「近代」だとすれば、それを超えた「現代」においては、〈子供〉をとらえる視点を移動させることが必要であろう。
これも1980年代の論述であるが、本田和子氏は、「消滅か拡散か──子どもらしさのゆくえ」(『思想の科学』1986・1)において、次のように述べている。
かつて「子ども」とは、原初の生の体現者として、しばしば「自然」と結び付けられた。そして、「子ども=自然」という記号は、大地や草木と戯れ、動物を愛する幼いものらの生態に裏打ちされ、不動のものであるかのように「子ども幻想」の中にたくし込まれたのだ。しかし、いま、泥遊びや木登りと無縁の、生物よりも映像を愛する子どもたちが輩出して、私どもを脅かしている。初雪が降っても歓喜せず、暑いからといって夏祭りを忌避する子どもたち……それは、大人世代を不安にする恰好の材料であろうし、人間崩壊の危惧を招き寄せもするだろう。
20年も前の指摘であるが、この「子ども=自然」という記号関係の解体は、更に深刻化しているといえる。冷暖房完備の中で養育され、ヒトとしての体温調節機能が弱化した低体温児の増加も、このことと無縁ではない。
「子どもらしさ」の喪失は、1960年代を境にして始まったとみることができる。高度経済成長がその決定的転機となった。長い歴史の中で培われてきた子供を子供たらしめてきた諸経験、これを味う機会や環境が、子供から奪われてしまったのである。
1970年代以降この傾向は更に加速し、便利社会が日常となった。手間暇のかからない商品群が街にあふれ、子供の生活の中身が支配されるようになった。マンガ、テレビ、パソコン……。以前は、学校から家に戻れば、子供は生活と生産の事実に触れることができた。ところが、いまや地域や家庭での生活文化が衰退し、それを経験することができなくなっている。家庭生活の基本の一つの食事文化まで喪失しつつあるのである。まさに現代は、子供=教育にとって危機の時代にあるといっても過言ではない。
では、現代における「子供」と「教育」を再生させるにはどうしたらよいか。その一つの道は、すでに述べたように、長い歴史の中で培われてきた子供を子供たらしめる諸経験を、子供に十分味わせる機会と環境をつくることである。その場はどこに求めたらよいか。幼稚園から小学校低学年までの時期をおいてほかにない。純粋な〈子供期〉のこの時期に、未熟性の土壌となる「経験欠乏症候群」から子供を守り、子供にとっての「自然」を回復してやるのである。そのためには、画一化し、硬直化したカリキュラムを弾力化することが求められる。
幸いにして、小学校には「生活科」という教科がある。いま、学力低下論争のあおりで第三者的には不人気であるが、実践者の側においては、その内容・方法等で開発的研究も進み、着実に成果をあげている。次期改訂においては、21世紀に生きる「子供」の活性化に役立つよう、更なる検討が待たれる。
最後に付言しておきたい。先述のように、近代社会においては社会的な有効性や生産性が優先され、健康な青年と壮年を基準とする原理が貫徹されていた。社会的弱者としての子供・老人・女性等はその外に位置づけられていた。その近代原理が破産しつつある「現代」においては、弱者に視点をすえた「知の組みかえ」が指摘されている。「人間」とは何かが、その全体性において問い直されているのである。現象学、精神医学、記号学、文化人類学、民俗学などが、深層的人間の解明を行っているのも、そのことと無縁ではない。「子供」や「教育」の問題は、この文脈に位置づけて考えていくことが要請されているといえよう。
〈注〉
- (1)本稿での「子供の表記は、アリエスの訳文が「子供」ということもあって、引用文の「子ども」を除いて、すべて「子供」で表した。
- (2)当時文部省は、このような「子供」をめぐる問題状況に対応すべく、直ちに全国に生徒指導担当の指導主事を置くとともに、中央や地方で「生徒指導講座」を開催した。と同時に『生徒指導の手びき』(1965年)を刊行して、理論的、実践的な方向づけを行った。そこには、生徒指導の原理や教育相談の方法等が具体的に述べられており、昨今のいじめや自殺にも十分対応できる内容が盛り込められていた。しかし、時代状況の変化や新しい教育課題の噴出もあって、これらの趣旨が生かされずに今日に至っている。
- (3)福島章氏は、当時、「いじめ時代」の問題性について次のように述べている。(「朝日新聞」(1986年3月10日付)「いじめが多いのは、日本の子供たちの積極性や自立性を幼児期から抑圧し、おさえこんできたことに一番の原因があります。親が自分の目のとどく範囲に子供囲い込み、なるべく他の者と接触させないようにする。子供が自立して、責任をもって他人と接する訓練ができていないから、簡単にいじめ─いじめられる関係で挫折するのではないか。」この文章の前後にも、今日のいじめの問題の本質につながる内容が記されている。