2.思いやりの心と共感
3.おわりに
1.はじめに
中学校の相談室にいると、子ども達の様々な問題行動に直面する。
友達とすれ違いざまに「お前なんて生きてる価値あるの? なんで生きてるのかねぇ?」と本人だけに聞こえるように囁いておきながら、いざ言われた子供から抗議をされると、「お前には言ってません。独り言です」ととぼけて平然としている子。自分の気分が乗らないと周りがどんなに迷惑しようが、「やりたくねぇ〜」といって好き勝手に振舞う子。
思いやりのある優しい子どもに育って欲しいということは、子どもをもつ親の誰もが願うことであるが、相手を思いやる気持ちや感情は年齢とともに、自然に生まれてくるものなのだろうか?また、思いやりのある行動をとれる子どもを育てるには、私達大人は、子どもとどのように関わっていけばいいのだろうか?
2.思いやりの心と共感
「思いやり」とは、相手の気持ちになって考えたり、相手の気持ちに共感することを通して、他者の痛みを理解した上で、相手のために何かしてあげようと思う気持ちである。こうした「思いやり」の気持ちを発生させる基盤となるのが「共感」である。
共感とは、相手が置かれている状況の中で相手がどのように感じているかということを自分自身の感情として共有することである。誰かに共感するためには、まず、相手は自分と違った感情をもっているといった自己と他者との関係の理解が当然必要となる。また、相手の感情を理解するには、そもそも感情には様々なものがあるという理解が求められる。
(1)感情の発達と共感
それでは、まず、共感のために基本となる感情は、どのように発達し、またどのように獲得されていくのであろうか? 人間の感情の発達について、K.M.B.ブリッジェスは、2歳までに11種類の情緒が生まれ、5歳までには大人が持つ同じ17種類の情緒が全部そろうと言っている。また、L.A.スルウフによると、最初は「快・恐れ・怒り」の3種類の情緒が並行して出現し、それ以後、まわりの情報を自分の中に取り入れてひとつひとつの情緒を意味づけし、複雑な情緒を獲得していくとしている。(表1参照)
表1 基本的情緒の発達(スルウフ 1979年)
月齢 | 快・歓喜系 | 用心深さ・恐怖系 | 激怒・怒り系 | 情緒の発達段階 |
0 | 内因的微笑 | 驚き、苦痛 | 顔を覆う、身体的拘束、強度の不快による苦痛 | 絶対的刺激防御 |
1 | 外に向かう | 凝視 | ||
2 | 外に向かう | |||
3 | 快 | 激怒(失望) | 積極的感情 | |
4 | 喜び 活発な笑い |
用心深さ | ||
5 | ||||
6 | 活発な参加 | |||
7 | 歓喜 | 怒り | ||
8 | ||||
9 | 恐怖(見知らぬ人を嫌う) | 愛着 | ||
10 | ||||
11 | ||||
12 | 意気揚々 | 不安 即時的恐怖 |
怒りっぽい気分 かんしゃく |
実行 |
18 | 自己感情の 積極的評価 |
羞恥 | 挑戦 | 自己実現 |
24 | 故意に傷つける | |||
36 | 自尊心、愛 | 罪悪感 | 遊びおよび空想 |
また、R.N.エムディは、情緒を獲得していくプロセスにおいて、乳児は、積極的に養育者に働きかけ、養育者の育てる力を引き出す存在でもあると述べている。たとえば、感情の交流においても、不快を「泣く」、快を「笑う」ことで養育者にサインを送り、それを母親(養育者)が共感的に読み取り、「ああ。ご機嫌ですネェ」「気持ちいいネェ」「眠たくなったネェ」といったように子どもの感情を共有する。そして、養育者とのこうした感情の心地よいキャッチボールが、ますますその子どもの情緒を育てていくことにつながっていくのである。子どもは、自分の気持ちに沿った対応の中で、安心して自分の気持ちに気付いたり、自分が理解されている、愛されていると感じられるようになるのであろう。乳児は愛着の相手である養育者との情緒的な応答的交流を通して、人と共にいる感覚や愛されている(守られている)存在であるといったイメージを獲得する。子どもが他者の感情に配慮していけるようになるためには、まず、自分自身が他者から受け入れられているイメージをしっかり持てていることが重要だといえよう。
C.W.ウィニコットは、子どもが安心して存在していられるような環境を「抱え環境」(holding environment)と名付け、親は完璧な親である必要はないけれども、子どもが不安や危険を感じた時に、安心して戻ってこられるような存在である必要があり、またそのような環境作りが大切だとしている。
子どもは自分の存在をそのまま包み込んでもらえるような安心できる環境下でこそ、豊かな情緒を育くんでいけるものなのであろう。
現代は女性のライフスタイルも変化し、少子化社会といわれている。初めての子育てに不安を抱くお母さんも多いことであろう。子どものためにどうにか完璧な母親にならなくては・・・と、具体的なイメージももてないまま、子育ての任務に押しつぶされそうになってしまうこともあるであろう。
私自身、子育てをする中で、ウィニコットの「親はけっして完璧な親である必要はない」という言葉にとても救われた。親であることをそんなに難しく考える必要もなく、子どもが発してくる様々な感情に向き合い、それを単純に共に楽しむことが、子どもの豊かな情緒を育てていくことに繋がっていくことを示唆してるように思えたからである。
このように、共感できる能力の育成は、乳児期の養育者との心地よい情緒の交流の中からすでに始まっている。他者との交流の中で、自分の感情をコントロールしてもらうことで、しだいに自分自身でも感情のコントロールができるようになり、様々な感情の存在を受容していくことができるようになるのである。
他者の気持ちを思いやれるためには、他者が体験している感情に共感できる"豊かな情緒"をまず自分の中に育てられていることが前提となろう。
ホフマンは、子どもが様々な感情を経験していくことを励ますような親の関わり方が、子どもの共感能力を増大させると指摘している。特に歩行も上手になってくる1歳後半から3歳ぐらいまでは、好奇心も旺盛になり自己主張も強くなる。しかし、言葉の発達が十分でないこの時期の子ども達は、自分の感情と他者の感情が完全には分化されておらず、自分の欲求が優先されたわがままな行動が目立つようになる。気に入った遊具を独り占めして順番を守れない、大好きなお菓子が出されると一人だけ多く取ろうとするなど。そんなとき、ホフマン流に対応するならば、単に「自分ばっかりブランコに乗ってたら駄目でしょう!!」と怒鳴るのでなく、「ブランコに乗るのは楽しいよね。でもお友達に乗せてもらえなかったら悲しいよね。だから今度は乗っていないお友達にも代わってあげようね」といった他者の感情に注意を払う「誘導的しつけ」が子どもの思いやりの心を育てていくことにつながるのである。
(2)他者の視点で物事を認知する能力の発達と共感
他人の心を理解して共感するためには、感情を理解できるというだけではなく、他者の視点で物事を理解できるという認知能力の発達も求められる。
自分の遊びたいオモチャを友達と奪い合いになり、相手を殴って取り上げ、平気で遊んでいられるのは自己中心的な段階である。それが成長と共に、他者の視点で物事を理解できるようになると、社会的な道徳心を理解するようになり「さっきは○○ちゃんに何か悪いことしちゃったなぁ。」といった罪悪感が芽生えてくる。道徳心や罪悪感の出現は子どもが他者の視点で認知できるようになった指標でもある。
R.L.セルマンは「思いやりの心」を役割取得能力の発達という視点から考察している。「役割取得能力」とは、自分の気持ちや考えだけでなく、他者の立場に立って、その人の考えや気持ちを推し量り、それを受け入れ、調整してそれらを対人交渉能力に活かす能力のことである。彼は、こうした相手の気持ちを推測する力(思いやりの心)の発達を以下のような5つのレベルに分けている。
- レベル0:自己中心的役割取得(3〜5歳)
自分の気持ちと相手の気持ちが融合化している状態 - レベル1:主観的役割取得(6〜7歳)
他者の感情が自分とは違うとは理解していても、その理解の仕方は自己中心的な理解が多い - レベル2:二人称相応的役割取得(8〜11歳)
自分の親しい友人であれば、かなり複雑な相手の気持ちの理解も可能 - レベル3:三人称相互的役割取得(12〜14歳)
少し離れた関係の友人の立場も理解可能 - レベル4:一般化された他者としての役割取得(15〜18歳)
より対象を一般化し、様々なところに視点を置いて他者の気持ちを理解することが可能
他者の視点で物事を理解できる認知能力は、ある程度の共通性があることも観察される。乳幼児は自分の感情と相手の感情の区別が十分できていないため、たとえば、2歳代の幼児は、よその子が転んで泣いているのを見ると、自分も泣き出すことが見られる。また、いつも仲良く遊んでいるお兄ちゃんが親に厳しく叱られて泣いているのを見ていると、自分も泣き出してしまうこともある。それが自我意識が芽生える3歳ぐらいになると、自分と他人との違いにしだいに気付き始めてくる。そのため、思いやりを具体的行動で表す行為が見られる。しかし、置かれている状況などを推測することは難しいので、ブランコから落ちて友達が大泣きをしたとき、その子の母親を呼んでこないで、自分の母親を連れてくることがある。まだ、自分の感情と相手の感情の混同が見られるからであろう。
また、J.ピアジェは、子どもの道徳観念の発達を認知の発達の側面から、「他律的道徳」と「自律的道徳」に分類している。「他律的な道徳」の段階は7〜8歳ごろまで続き、先生や親といった権威者の言いつけに従っている行動であるかどうかということが善悪の判断になる。「○○ちゃんが、△△ちゃんを蹴飛ばして泣かしたよ」「そんなことしたら先生に叱られるよ」「友達の嫌がることをしたらいけないっておかあさんが言ってたよ」といった言動が多く見られるのもこの時期である。10歳以降になると、状況や相手の意図を考慮した上で、自分の行動を自分で判断する「自律的道徳」の段階に発達していくとしている。
L.コールバーグは、ピアジェ理論をより進展させ、3つの水準に分けられた6段階の道徳性発達理論を述べている。コールバーグも道徳性の発達には、知的水準を意味する「認知能力」と他者の立場を推し量れる「役割取得能力」の発達が道徳性の獲得には不可欠であるとしている。
しかし、他者の立場で物事を理解できるという能力(役割取得能力)は、年齢と共に自然に獲得されていくものなのであろうか?こうした役割取得能力は年齢を重ねれば勝手に習得されるものではなく、子ども達は、日常に体験する様々な交流関係を通して学んでいくものではないだろうか。
その代表のひとつに幼児期に体験する「ごっこ遊び」があげられる。子どもたちは遊びの中で、お父さん役、お母さん役、お兄さん役、赤ちゃん役といった様々な役割を取りながら、他の人の考え方や行動を学んでいるのである。子ども達は、自発的行動が繰り広げられる「遊び」を通して、様々な立場を経験的に身につけていくのである。
3.おわりに
子どもの生活から時間・空間・仲間という三間(サンマ)が失われたと言われて久しい。小学生ともなると、塾や習い事で忙しくなり、放課後も自由に遊べる子ども達が少なくなった。
遊びの内容も変化してきている。テレビゲームの隆盛は子どもから対人的な交流の機会を奪った。同じ部屋に複数の子どもがいても、テレビゲームに熱中している子、持参したファミコンをやっている子、漫画を読んでいる子、各々が同じ空間に居ながらお互い同士が関わりをもつことなく遊びの時間を過ごすことが珍しくなくなってしまった。
それはまた、友達との喧嘩や仲直りを通して体験的に学べた共感性や対人関係保持を学ぶ機会の喪失に繋がる。学校生活の中で、仲間作りそのものを疎ましく思う子ども、集団生活に慣れない子ども、自分のことしか考えられない子ども、またどうにか思いやりの心は育っているものの、自分の本音や力量との折り合いをつけながら良好な対人関係を築くことができない子ども達の増加は、そうした関わりあいの減少も一因といえるであろう。子ども達の生活から対人関係を経験できる遊びの場(時間)が喪失されていく中で、これからますます家庭教育の果たす役割は重要となっていくことであろう。
ウィニコットのいう「抱え環境」は、乳児期の子どもが「自分が愛されている存在」であるという感情を得られる大切な環境要因であった。しかし、自分の存在に自信の持てない思春期に差し掛かった子ども達にも有効な環境条件にもなるようである。なぜなら、中学校の現場で、得体の知れない怒り、不安、悲しみといった不快感情に押しつぶされそうになっている子ども達と、彼らの感情をそのままに受容するといった関わりあいを持つことで、子ども達自らが自分の中の不快感情の存在に気づき、さらにその感情を適切なかたちで表現する方法をつかんだとき、それまで自分のことしか考えられなかった彼らの心の中が、いつの間にか他者を思いやる心のエネルギーに満たされていくといったことが経験されるからである。こうした「抱え環境」を担う家庭の果たす役割は大きい。
自分の気持ちが受容される中で、お互いの気持ちを思いやりながら交わる家族間でのコミュニケーション力が、自分自身も活かしながら相手を思いやっていける子どもを育成していける礎となるものであろう。核家族化が進み、家族の構成員の数は限られている。それだけに、まず親自身が父親、母親として、また夫や妻として、また一社会人としていかに家庭の中で、また社会とのつながりの中で、他者の視点も考慮した思いやりのある対話ができているだろうかということを、今もう一度振り返ってみる必要があるともいえるのではないだろうか。
〈参考文献〉
(2)『やさしくわかる発達心理学』 2006年 林洋一(監修) ナツメ社
(3)『道徳教育』 内藤俊史・押谷由夫(編) ミネルヴァ書房 1998年