内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第36号
特集:乳幼児期の探究I

「子ども観」を考える上での「大人の立場」の再考
―古典に見る幾つかの言葉をきっかけに―
八木 浩雄 明星大学大学院 院生
*** はじめに ***
昨今の社会を鑑みて
古典に見られる「子ども」と「大人」の位置づけについて
*** 終わりに ***

はじめに

今から約10年前の1996年に、文部省(現文部科学省)は、中央教育審議会(以下、中教審)を通じて、「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第一次答申を明らかにした。それは、当時21世紀という節目をむかえるにあたり、また日本にとって戦後50年を経過した国内社会を振り返り、今後どのような教育を目指していくべきか、その教育行政としての見解をまとめたものである。一般的には、学校教育を中心に、中教審の答申を反映させる形でその内容は活かされている。

さて、この答申では、「子供たちの生活の現状」として子どもたちを「ゆとりのない生活」、「社会性の不足や倫理観の問題」、「自立の遅れ」、「健康・体力の問題」、「現代の子供の積極面」、「学校生活をめぐる状況」の6項目を柱として、当時の子どもたちの特質とその置かれている状況を分析し明らかにしている。それぞれの詳細な内容についての解説は省くが、この答申の結果その後の幼稚園と小・中・高並びに盲・聾及び養護の各学校における教育上のキーワードとして「ゆとり」と「生きる力」の育成が盛り込まれ、今日までその趣旨が引き継がれている。

しかし、この提言がなされて10年、果たして子どもたちは、「ゆとり」を感じ「生きる力」を養うことができたといえるだろうか。昨今の社会の様子を見る限り、悪くなったとまでは言い過ぎかもしれないが、実際のところ何も変わらずに来た10年であったようにも思われ、少なくともこの「ゆとり」と「生きる力」のキーワードの限りにおいては、十分なされたということには疑問を感じずにはおれない。「ゆとり」ある環境と「生きる力」の育成を教育の上で課題とすることには十分賛成できるが、当の子どもたちの中にそれを見出すことができないということは一体何を意味するのだろうか。

今後教育の改善を進めていく必要があることは十分理解しつつも、ここでひとつの疑問が挙がる。それは、今の子どもたちに行われている教育が、もし自分が子どもであった時、果たして自分は受け入れられるのだろうかという疑問である。

大人として教育に関わる側にとっては、今後の教育の在り方また子どもへの関わり方は、大きな関心事のひとつではあるが、時に子どもにとっては、その意図は十分理解されずに受け止められていることは大いに予想される。諺で言うところの「親の心子知らず」とはまさに的を射た表現といえるであろう。

なぜ、教育を考える際、「子ども」の存在を尊重しつつといいながら、教育の場において混迷を極めるのであろうか。そこには、大人の側に何か見落としているものがあるのではないだろうか。

そこで本論では、教育を考える際に「子ども観」を掲げる「大人の立場」の側に懐疑の目を向け、日常的に見落としているものを探っていきたいと思う。

昨今の社会を鑑みて

現在日本では、教育全般にわたる広範な改善が進められている。最近では、「認定こども園」制度の開始(2006(平成18)年10月)、教育基本法の改正(2006(平成18)年12月22日公布・施行)がニュースとなり、教育の根本からの見直しが進められてきている。

保育・幼児教育の話題として取り上げられている「認定こども園」は、これまで保育所と幼稚園によって保育並びに幼児教育に関わってきたものを、新たに統合した施設として制度化されたものである。   また、教育基本法の改正は、制定後これまで改正されることのなかった教育基本法を、「今日求められる教育の目的や理念、教育の実施に関する基本を定めるとともに、国及び地方公共団体の責務を明らかにし、教育振興基本計画を定めることなどについて規定」することを目的として改正が進められた。この教育基本法は、日本における教育関係の根本法としての位置づけがあるため、今後幼稚園をはじめとした各学校に関する規定が順次整理されていくこととなっている。

しかし、このような教育の改善の動きを耳にする一方、社会では教育にとどまらず日々深刻なニュースが、世間を騒がしている。例えば、学校教育に関わるものとして記憶に新しいところでは、大学受験に必要な科目を優先し必修科目が十分学習されなかったことが全国の高等学校の幾つかで確認された。また、学校の枠を超えて社会的な問題としては、「いじめ」や家庭での虐待または家族間での殺人など、事件そのものに対する過激な内容は、もはや私たちに麻痺のような感覚を与えるほど日常的な事件にもなりつつある。

これらの事件や社会問題そのものについては、それぞれで時間を掛けた調査や改善策を図る必要もあるが、見方を変えれば、「子ども」や「親」・「学校」といった立場や役割の在り方以前に、そもそも「ひとりの人間」としての存在の尊重や、社会に生きていく中で他の人々に支えられて生きているといった意識が希薄になっていることが深刻な問題として根底に潜んでいることを感じずにはいられない。

それは、一般的なモラル・道徳や公共の精神といったレベルの問題ではなく、日常として過ごしやすい社会の感覚自体が薄らいでいると言い換えることができるだろう。

以上のような現状を考えたとき、「子どものための教育」を声高に叫ぶ一方、社会の中に潜む慢性的な人間としての尊重の希薄な環境がある事をこれまで残してきてしまったのもまた、社会を形成してきた私たちの側であるといわざるを得ない。「将来を担う子どもの育成」を教育の場では一つの目標としているが、むしろこのままでは、慢性的に社会に蓄積された「負の社会環境」の後始末だけを担わせるだけなのではないだろうか。

すなわち、私たちは今後の教育を考える一方で、今ある社会状況をそのままに子どもたちをさらそうとしているのである。

「はじめに」で紹介した中教審の答申では、当時の子どもたちの中に「社会性の不足や倫理観の問題」、「自立の遅れ」といった弱さを指摘していたが、今となっては大人の側にも通じるものと言わざるを得ないだろう。

では、あえて「子ども」と「大人」または広く教育される側とする側の違いを考えた場合、何が位置づけられるかを考えてゆきたいと思う 。

古典に見られる「子ども」と「大人」の位置づけについて

これまで、筆者が子どもと大人の関係を考える際、たびたび思い出される古典の中にある話題をふたつ紹介し、その所見を述べてみたいと思う。ひとつは、中国の思想家孔子の言行録『論語』の中にある記述であり、もうひとつは、柳田国男の『日本の伝説』の中にある記述である。それぞれを以下に見てゆきたいと思う。

孔子は、「子生まれて三年、然(しか)る後に父母の懐(ふところ)を免(まぬが)る。(子どもは生まれると三年たってやっと父母の懐から離れる。)」という言葉を残している。まだ、現在のような保育や幼児教育の考えもない時代の素朴な親子関係を表した言葉である。

その孔子は、「後生畏(こうせいおそ)るべし。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如(し)かざるを知らんや。(青年は恐るべきだ。これからの人が今〔の自分〕に及ばないなどと、どうして分るものか。)」と当時の若者に対してのその可能性の存在を認めている言葉を残している。しかし、やはり当時は、今日のような「子ども」としての認識も一定していない時代であり、この言葉は単に若者とするだけでなく「大人」に対しての「子ども」の位置づけで読み解くこともさほど極論ではないだろう。

そして、このような視点は、素直に「子ども」を見る上での「大人」の視点として、特に大切な立場を言い表しているようにみることができる。それは、いかに人生経験豊富な年長者であっても、その子が将来歩む人生またその子ども本来がもつ可能性には、直接関与することはできないのである。「子ども」の持つ可能性は、大人が考える以上に大きいものであり、計りがたいものであるが、時に大人は、自らの人生経験の前に子どもを「未熟な存在」として見てしまう面が先行してしまう。全てを大人と同じ立場で子どもを捉えるとはいかないまでも、子どもの持つ潜在的な力の存在に配慮した上で関わる姿勢が大切であるといえよう。

なお、そのような孔子は、自らの教育姿勢について次のような言葉を残している。「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。?(ひ)せずんば発せず。一隅(ぐう)を挙げてこれにしめし、三隅を以て反(か)えらざれば、則(すなわ)ち復(ま)たせざるなり。(〔わかりそうでわからず、〕わくわくしているのでなければ、指導しない。〔いえそうでいえず、〕口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅(すみ)をとりあげて示すとあとの三つの隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。)」この何かを知りたい・伝えたいとするもどかしさに対して、はじめて教育的な助言を与える孔子の教育姿勢に注目すると、先に述べた子どもの持つ潜在的な可能性を認めた上で、はじめて行える教育行為の意味深さをうかがい知ることができる。 また、この知りたいと思いながらその具体的にものが表現できない、また伝えたいことがありながら表現できずに言い出せない、このような感覚こそ「子ども」と「大人」の経験上の違いであり、はじめて大人が関わるべき教育の立場を見出すことができる。しかし、潜在的に何かを持ち、経験上の未熟さからその意思表明ができないだけで、人間として持つ可能性の面においては大人と何ら変わりがないという子どもの存在についても、この孔子の教育姿勢を表した言葉から改めて読み取ることができるだろう。

日本の民俗学者柳田国男の著作『日本の伝説』の中に「伝説と児童」というものがある。これは、地方に伝わる伝説やそこに住む年寄りを通して語り伝えられたものをまとめたものであるが、特にここでは、それぞれの土地にある地蔵と子どもの関係についてまとめられている。

その中に、地蔵と子どもが遊ぶという話があるのだが、そこで「そうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り折り腹を立てました。縄で引っ張ったり、道の上に転がして馬乗りに乗っていたりするのを、そんなもったいないことをするなと叱って、きれいに洗ってもとの台座に戻して置くと、夢にその人のところへ来て、えらく地蔵が怒ったなどという話もあります。せっかく小さいものと面白く遊んでいたのに、なんでお前は知りもしないで、引き離して連れてもどったかと、散々に叱られたので、驚いてもとの通りに子供と遊ばせて置くという地蔵もありました。」といった伝説が紹介されている。

この話は伝説であり、必ずしも現実的であるとは言いがたいのだが、この伝説によって子どもと地蔵の関わり方と、日頃地蔵をある種の信仰の対象として関わる大人の違いを見出すことができる。そして、さらに興味深い点は、地蔵が子どもの関わり方を尊重し、大人の側を叱ったとする中に「子ども」という存在と「大人」としての立場に、相違があることを伝説の中から気づかされるのである。

もちろん柳田は、これは昔の話であり「今頃新規にそんなことを始めたら、地蔵様は必ずまた腹を立てるでしょうが」と一言加えた上で、日常の中に潜む子どもの世界と彼らを見守る大人の立場に違いがあることを、日本に伝わる伝説の類の中から明らかにしているのである。

以上のように、『論語』の中に見られる孔子の言葉や柳田国男の伝説についての記述は、一般的には教育を考える際には取り上げられない事例ではあるが、しかし、これらは日常的な中での話題であり、より身近な子どもとの関わり方を考えさせられるものであるように思われる。『論語』は孔子と彼の弟子の日常の言行録であり、柳田のまとめた伝説は、かつて日本の村々で語り継がれたものを整理したのであり、どちらも日常に根付いた中での記述である。

ここで述べておきたい点は、決して過去の時代を回顧するということではなく、これまでの人間の歴史の出来事を紐解いてみると、一見全く関係のない事柄においても、何かしら考えさせられるものが潜んでいることが多分に見られるということである。

こと教育という営みは、人類のはじまりから行われた行為であることを考えるとき、多少の程度の違いはあれ、今日まで示唆を与える事柄が大いに見出せるのではないだろうか。

終わりに

私たちは、「子ども」という存在を尊重し、日々の教育の中でもそれを反映させる形で、研究や教育活動を進めているが、この「子ども観」は、子どもという存在を理解しようとする努力のひとつである一方、「大人」の側の期待が多分に反映されているものが含まれているのも事実ではないだろうか。それは、自らが子ども時代を経験した上で、「大人」になってからの反省や実感を含めた結果であるといえるかもしれない。

しかし、当の「子ども」の側にとってみれば、自ら経験のない中での大人の指摘は、時に圧力としてしか映らない面もある。

「昨今の社会を鑑みて」でも述べたが、今子どもに期待し求める教育は、今の自分たち大人の側に欠けているものを子どもに求めていることを時に反省しておく必要があるだろう。そして、その上で改めて「子ども」と「大人」が同じ目線で関われる教育の場を目指していくべきだと思われる。  古典によって伝えられる子どもと大人の関わり方に注目すれば、「子ども」と「大人」の違いを明らかにしつつ、時に日常「大人」の側の視点に先行しがちな姿勢を指摘する記述を見出すことができ、それに対する留意は決して不可能ではないことを言い表している。

それぞれ人は、子ども時代を経て大人となるわけであるが、今いる大人の経験した子ども時代と今の子どもの時代とでは、明らかに状況が違う場合もある。必ずしも、現在という時間を常に正しいものと位置づけることが良いとはいえないが、少なくとも教育という活動を通す中で、それぞれが生きてきた時代が違うということを踏まえておく必要はあるだろう。そして、それぞれの感覚の違いの溝を多少なりとも埋めた上で意見交換ができるよう、「立場の違いを認識した上での対話」の姿勢をまず教育を考える「大人の立場」として真摯に受け止め、位置づけておくことが必要なのではないだろうか。


〈参考文献〉
・『論語』(金谷治訳注) 岩波書店 1963
 (また、本文に引用した論語の訳文についても同書の訳文をそのまま引用した。)
・柳田国男 『日本の伝説』 新潮社 1977
 ※審議会情報等については文部省(現文部科学省)ホームページより確認できる。
  URL http://www.mext.go.jp/(2007.1.15現在)