2 地域社会の希薄化
3 地域社会での成長過程
4 「平凡教育」の重要性―柳田國男の教育観
5 地域社会の中の子ども―宮本常一の体験より
6 結びにかえて
1 はじめに
本稿では地域社会のもつ教育機能について検討してみたい。子どもの生活において地域社会の存在が希薄になっていることが指摘されるようになってかなりの時間がたつ。今では子ども達が外で遊んでいる姿を見かけることはほとんどないし、そのことを不思議に思うことも少なくなっている。遊ぶ場所がない、勉強や稽古事が忙しい、外にはいろいろな危険がある、電子ゲームの方が楽しい等々、様様な理由があるとも考えている。
近所に住む子どもどうしでも、学校や塾などで知り合いででもなければ、道であっても挨拶もしないし、声をかけ合うこともないのが普通である。地域の子どもと大人との関係はさらに疎遠になっている。
本来、地域社会は子ども達の日常生活の場であり、人格形成や社会性の涵養に重要な機能を担っていたはずである。それは、どのようなものだったのだろうか、また、この問題に対して現在どのような対応ができるのか、いくつかの資料を基に考えてみたい。
2 地域社会の希薄化
現在、地域社会の希薄化という現象は都市部と地方の双方で起こっている。希薄化は、都市部では1960年代から顕著になる人口の都市圏への集中や産業化の進行、ライフスタイルの変化など、いくつもの社会変化と並行して起こってきた。個人主義的な考え方や核家族的な志向は転勤などの移動が多い企業社会の要請でもあり、夫婦共働きも増加していった。労働人口の都市への集中は住宅不足を招き、多くの団地や集合住宅が作られた。その多くは「ニュータウン」などの新しく作られた町で、住民は様々な地方から集まった異なるルーツを持つ人達だった。そこでは隣近所の親密な付き合いや祭り、行事などへの参加より、他人に干渉せず、個人の生活を優先する風潮が強かった。人々は空間的には接近して暮らすものの、そこに介在する人間関係は往々にして希薄なものになっていった。
地方では、都市への人口集中の反動で過疎化し、人口は高齢化した。地理学者・大野晃の造語に「限界集落」という言葉があるが、これは65歳以上の人口比率が50パーセントを超え、集落内での生業や冠婚葬祭を含む日常生活の遂行が難しくなり、集落の自治など地域社会としての機能が失われ、やがては消滅に向かう集落を指している(1)。大野がこの概念を提唱した1990年代初頭には、現実にこのような数値を示す集落はごく少数で、将来に対する問題提起であった。しかし、現在では2000以上の限界集落が存在すると言われている。さらに地方自治体単位で「限界」状態に近づくものが現われ「限界村」や「限界自治体」といった言葉まで使われるようになった。今後、急速に増えていくだろうと予測されている。
子どもの生活については、学校教育への関心が急速に高まり、上級学校への進学志向は強まる一方である。このことは地方では子どもの進学を契機とした都市への移住を招き、過疎化をさらに進める要因になった。都市部では熾烈な受験競争をともなう学歴主義を生んだ。子ども達の生活は学校に集中するようになり、それ以外の生活が希薄化した。
3 地域社会での成長過程
地域社会が希薄化する以前、子どもの成育に地域社会はどのような貢献をしてきたのだろうか。教育社会学者・深谷昌志は1950年代の後半ぐらいまでに子ども時代を過ごした人の経験として次のように子ども達と地域社会とのかかわりを整理している。
伝統的に子ども達はまず、ままごと遊びの仲間のメンバーとして地域に登場する。そして小学校に入る頃になるとままごと遊びを卒業して遊び仲間集団にはいる。この仲間集団の特徴として 1.地縁的に密接したところに住む 2.年齢を異にする 3.主として、同性だけのグループを作る4.メンバーは固定化し 5.集団内での地位や役割が明確で(年長者の中からリーダーが選ばれ、それに従うメンバーや準メンバーなどが年齢を基準に構造化されている) 6.集団としての固有の文化をもち(秘密の隠れ家、仲間内の暗号、自分たち独自の遊びのスタイルやルールなど) 7.遊びなどを通して、まとまりのある行動をとる。
子ども達は家の片隅のままごとから始まって、徐々に字(あざ)程度を単位とする遊び仲間、そして村の規模での若者組へと年齢に応じてより大きな集団に所属しながら成長していく。学校が、幼稚園、小学校、中学校と段階付けられているように、地域に根をおろした仲間集団も、それぞれ独自の機能を担いつつ成層化されていて、子ども達はそうした集団を通過しながら成人化していったとしている(2)。
地域社会が機能していた時代には、子ども達には学校とは別の生活の場があり、そこには多様な人間関係があり、固有の行動規範があった。仲間集団では、学校では経験しにくい異なる年齢の者との付き合いを学び、独自の遊びを工夫する能力や、多様な役割分担の中で人間関係を調整する力も求められたことだろう。
4 「平凡教育」の重要性―柳田國男の教育観
地域社会の教育的機能について考える場合、柳田國男の「平凡教育」の概念は多くの示唆を提供する(3)。柳田は若者を教育する方法を「平凡教育」と「非凡教育」の二つに大別した。この内「非凡教育」は書物を読むことを特色とするとしているが、現実的には学校教育を指している。「非凡」であること、つまり他より優れていることを求める教育であるから周りの者はみな競争相手である。結果的に順位や序列を生みやすい教育である。「非凡教育」の歴史は短いが、明治維新以降、書物を読み外界を知ることが非常に役立つ時代が出現したため、こちらが主流を占めるようになった。そして、もう一方の「平凡教育」を低く見るようになったのだという。
これに対して「平凡教育」とは古くから日本の社会で綿々と引き継がれてきた教育法である。周りの人々と同じように秩序を乱さず一人前に生活できる能力の養成を目指す。そこで一番嫌われるのは手前勝手、横着、自分さえよければいいという態度、人に迷惑を与えて顧みないという行為である。年長者を見習い、土地の慣習、先例に従う日常の生活をとおして行われる教育で、基本的に保守主義の傾向をもつ。柳田は、この教育法について彼が「笑いの教育」と呼ぶ独特の教育論を展開する。「平凡教育」においては、多くの場合、手本になるような良い言行を褒めるというよりは、消極的な方法、つまり何か過失を犯した時に叱る方法がとられた。それも日常の忙しい生活の中で行われるので、長い時間をかけて説いて聞かすのではなく、たいていは諺のような短く気の利いた、笑いを誘うような言葉で、過失なり欠点を批評する。若者は、笑いものにされないように行動するようになる。特に、男女が一緒にいる場では、配偶者選択をしなければならない若者にとって、笑いものにされるのは大きな苦痛でもあったという。「平凡教育」は身につけるべき資質に欠けるところがあれば非難されるが、一定の水準でその資質が備わっていれば村のメンバーとして認められるわけで、順位や序列を生む要素は少ない。
柳田は「平凡教育」、「非凡教育」それぞれの長所短所をあげつつ、「平凡教育」の重要性を強調した。「非凡教育」が一般に高く評価されるようになったのは、社会的な栄達につながるといったように、その効果がはっきりしているからである。しかし、そのことで「平凡教育」が価値の低いものであると考えるのは間違いであると主張する。日常生活のなかでくり返し行われる「平凡教育」は「非凡教育」よりもはるかに長い歴史の中で形成されたものであり、その「平凡」を深く知ることは、自らが担ってきた文化を内省する契機ともなり、先人の長い経験を学ぶことでもあるとしている。
この著作は柳田が1937年に旧制第二高等学校で行った講演を文章化したものであるが、「非凡教育」を受けて高級官僚の道を歩んだ柳田自身が、当時の学校教育のエリート達に「平凡教育」の重要性を説いているところが興味深い。
5 地域社会の中の子ども―宮本常一の体験より
それでは、実際に地域社会の機能が十全に保たれている状態とはどのようなものだろうか。民俗学者・宮本常一が1960年当時の村落社会を描いた文章をみてみよう。
宮本は第二次世界大戦前から戦中戦後を通じて日本の農山漁村を文字通り自らの足でくまなく歩き、そこに住む人々の生活を観察し、話しを聞き、記録し、膨大な著書を遺した。昨年は生誕100年に当ったため、様々な行事や彼に関連する出版が続いている。
彼の代表的な著作である『忘れられた日本人』の中に「子供をさがす」という文章がある(4)。宮本はこの文章の冒頭に、地域の共同体が実際にどのように生きているかを示すため、一農村の事例を紹介すると記している。場所は山口県周防大島、ここは宮本の故郷であり、登場する男の子は文章上には書かれていないが、実は宮本自身の子どもである(5)。要約すると以下のようである。
1年生の男の子がテレビを欲しがる。親達がいろいろな理由をつけてテレビを買ってくれないものだから子どもはしきりにせがむ。母親が聞きわけがないと叱ると、子どもはだまって外へ出て行ってしまい、夕飯の時刻になってももどって来ない。家族は心配になって心あたりを探してみるがどこにもいない。もしものことがあってはと警防団に捜索を頼み、近所の人々も一緒になって村中をさがすが見つからない。夜9時ごろになって父親(宮本自身)が仕事からもどると、男の子は家の戸袋の隅からひょっこり出てきた。願いが聞き入れられないので、家の者を少し心配させてやろうとしてかくれたのだが、さわぎが大きくなって出てこられなくなってしまったのである。子どもが見つかったので、探しに出ていた村の人々に拡声器で子どもが見つかったことを伝えて、お礼をいう段になって宮本は驚くのである。
村の人たちが、誰に指揮されていたわけでもないし、皆で相談して計画的に捜索したのでもないのに、一人ひとりがその子どもの行きそうな場所を実にうまく分担して探していたのである。宮本が驚きとともに村の美しい資質とみたものは、まず、村人たちが子どもの普段の行動やその家の事情や暮らし方を知りつくしていたということである。また、他人の子どもが起こした迷惑にもかかわらず、親身になって探してくれたこともあげられるだろう。宮本はこの時の体験を、「もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦でも票のわかれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられるということでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである」と記している。
「目に見えぬ村の意志」、具体的には村のメンバーに対する深い相互認知、村の中での自らの役割の認識と実践、村全体で子どもを育てていこうとする態度、こうした思考と行動様式が村人に身についているわけである。宮本が村の美しい資質と見た行動は、前述した「平凡教育」がいくつもの世代にもわたって継続され、その結果として形成されたと考えられるだろう。また、宮本の文章で興味深いのは、宮本自身がこの文章が書かれた時点で、すでにこのような村落共同体の結びつきが失われていたと思っていたことである。普段の生活では深い付き合いがないように見えていても、ひとたび事が起これば共同しあえるという、地域社会の根の深さ、柳田の言葉をかりれば「平凡教育」の底力のようなものを感じさせる話である。
6 結びにかえて
以上、みてきたように子ども達にとって、地域社会の機能は学校教育に対置されるものであったとみることができる。地域社会の希薄化の過程は、そのまま学校教育への集中の過程でもあった。きちんとあいさつができる、手伝いをする、周囲の人々と適切な付き合いができる、地域の習慣に従うなど、社会性の涵養ともいうべき教育は、かつては地域の日常生活の中で身につけるものであったが、今では学校での生活課題へ移行している。子ども達の生活の大部分が学校に包含されるようになり、かつてあった学校とは別の「居場所」や、そこでの固有の価値観や行動規範の多くが失われた。こうした「居場所」で自発的、あるいは自然発生的な仲間集団をつくる経験も少なくなっている。いきおい宮本の文章でみたような、地域社会が全体で子育てに当たろうとする態度も形成されにくくなっている。
学校教育は、柳田の観点にたてば新しくやってきた「外来者」ともいえる。教師はなじみのある隣近所の大人たちではなく、外からやってきた公的な存在である。学校での生活には厳格な時間の規律が存在し、「業績原理」への適応が求められる。学業を中心とする学校での生活は評価の対象となり順位や序列がつけられる。学校は管理された競争社会という一面をもち、ストレスの大きい生活世界でもある。年々増え続ける不登校児や様々な不適応症状を呈する子ども達の存在と、学校教育への過度の集中は深い関係があるものと考えられる。
かつて、地域社会という、学校とは別の「もう一つの世界」があった。そこは子ども達にとって学校での生活に行き詰った時の休憩所であったり逃げ場であったりしたはずである。あるいは学校とは別の人間関係を築き、別の関心や好奇心を満たす場だったかもしれない。
最近、こうした状況に対する対応の動きがいくつかでてきた。たとえば、オルターナティブ・スクールの推進はその一つである。オルターナティブ・スクールとは、学校としての認可の有無を問わず、既存の確立された教育制度以外の教育的活動全般を指す言葉で、多くは不登校などの不適応で学校に通えなくなっている人達を対象としている。しかし、そういった学校教育を補完する目的のものばかりではなく、自然教育や芸術教育を行うもの、積極的に教育を行うのではなく、自由に時間を過ごせる場所を提供するものなど様々な形態がある。
また、残された地域の関係を再生させ、社会的な連帯を強めようとする試みも起こっていている。ここ数年、通学途中の児童が危険な目に遭う事件が続いているが、こうしたことを契機にいくつもの地域で通学の安全のための協力組織がつくられたり、町内の親睦のための行事が行われるようになった。
かつて存在した地域社会を復活させることが実現困難であるとすれば、地域社会が担っていた機能を分担させていくつかの制度で担う方向が考えられる。オルターナティブ・スクールや通学の協力組織の試みはこの脈絡に沿うものである。様々な形で子どもたちに柔軟な生育環境を提供することは、ひいては学校教育の有効化にもつながるものと考える。
〈注〉