II.幼児教育・保育の構造における「子どもを見る」こと
III.子どもが見えるようになるには
IV.「子どもを見る」ための「構え」
I.はじめに
幼児教育・保育の場において、保育者は「子どもをありのままに見るように」、「子どもから学びなさい」などと言われ、また言い続けてきたのではないだろうか。勿論、これらは、幼児教育・保育の場で保育者同士において限定的に交わされる言葉というわけではない。昨今の子育て論や非行や不登校といった問題を抱えた親子のかかわりを取り扱った書物でも見かけることは多い。いずれも子どもを捉えるため、子どもを理解するための方法原理のひとつとして極めて重要な言葉(行為)と考えてのことであることは文脈から窺える。
遡れば、「子どもの発見」で知られるルソーは、その著書『エミール』で「子どもをよく見なさい」と言っている。「幼児教育の父」と称されるフレーベルも「子どもたちから、学ぼうではないか。かれらの生命のかすかな警告にも、かれらの心情のひそかな要請にも、耳を傾けようではないか。子どもに生きようではないか。」1)との言葉を残している。幼児教育・保育に今なお影響を与え続けているルソー、ペスタロッチ、フレーベル、モンテッソーリ、我が国では倉橋惣三といった偉大な先覚者たちが、自身の理論や実践において後世に伝えたかったことは、まさにこれらの言葉に表れていると言ってもよいのではないだろうか。
考えるにルソーら先覚者たちは、それまでの「子ども観」に対して疑念を抱き、懐疑的ななか「子どもをありのままに見る」こと、「子どもから学ぶ」ことで、新たな「子ども観」を導き出し、新たな教育・保育を創り出してきたのであろう。この導き出された「子ども観」に我々が倣(なら)うべきことは多くある。実際、倣(なら)うことによって幼児教育・保育は発展をみてきたと言える。しかし、ここでは「子ども観」そのものよりも、その導き出していく過程での方法原理に目を向けてみたい。なぜなら、時に保育者が共有する問題として提起される「子どもを見ようとしても見えない」、「子どもに一生懸命にかかわるが子どもが見えてこない」、「子どもから何をどのように学ぶのか」ということに対して、何らかの手がかりを与えてくれるのではないかと考えるからである。本小論は、「子どもをありのままに見る」、「子どもから学ぶ」ということをその専門性から要請される保育者が、これらをどのように捉えればよいかを考えることがねらいである。
II.幼児教育・保育の構造における「子どもを見る」こと
「子どもを見る」ということにおいては、子どもの見方(観方)としての「子ども観」、そして、活動の対象への子どもの興味や関心、発想やイメージなどから子どもを見るという「子ども理解」を考えることになる。端的に言えば、前者は保育者(大人)側の視点、後者は子ども側の視点に立っての理解である。重層的で相互に関連して構成される幼児教育・保育の全体構造を各要素に分けるならば「子ども観」は、次のように位置づけられる。
幼児教育・保育の全体構造の基底にあって全体を支えているのは、保育者が子どもをどのような存在として捉えているかという「子ども観」であり、子どもの成長・発達を促すにはどのような方法が適しているかという「教育・保育観」である。したがって、保育者自身がもつ「子ども観」や「教育・保育観」によって幼児教育・保育の目標、内容、計画、展開(方法や形態)は規定され、構想される保育そのものも規定されることになる。となれば、保育者は、より善く、より適した「子ども観」をもって日々の保育を構想し、実践することが要請される。しかしながら、至極当然のことであるが「子ども観」は多様であり、保育者であれば保育者の数ほどあると言える。それは「子ども観」が、あくまでも個人の内部で通用が可能であるといった限定性を帯びていることを意味しているとも言える。加えて言えば、何をもって確固たるものとするかを明確にし、かつ共通で絶対的な「子ども観」を提示することは非常に困難である(したがって先に「より善く」、「より適した」と記したが、この基準もまた曖昧さを免れないところがあることを加えておきたい)。とは言え、我々は、先述した先覚者たちの「子ども観」に倣(なら)い、それをもとに子どもを見てきてもいる。例えば、ルソーは、子どもの本性を「善」として、子どもの自然的素質や能力は素直に発現させるべきであり、大人が子どもを「善く」しようと干渉するのは不必要であるとした。この環境を整え、見守る教育は、まさに、今日の幼児教育・保育にもその思想の一端が窺える。
しかしながら「子ども観」は、あくまでも保育者(大人)の側から見た子どもの見方なのであり、「子ども観」に照らして保育を構想し、実践することは子どもの視点が希薄な保育になることが考えられる。そのために子どもの視点に立つ「子ども理解」が保育の構造上、「子ども観」に関連して位置することになる。重要になってくるのは、多様な「子ども観」を問い直す作業をしながら分類や統一を図り、保育実践に役立つ「子ども観」を探し出すことではなく、むしろ、子どもと生活し、子どもを見てきた、その経験や知識をもとに「子ども観」を形成しながら幼児教育・保育を構想したとしても、実はその「子ども観」が子どもを見ること、理解することを妨げていることに気づくことであろう。
「子ども観」をもつことは、同時にある枠組みを通して子どもを見てしまうことでもある。子ども自身がそのことをどのように捉えて、受け止めて、感じているかを理解しない限り、子どもをありのままに見たとは言えない。要するに、誰かが導き出した子ども、いわゆる「子ども観」を学んでも、「子ども」から学ぶことにはならないし、子どもを見ることにはならないだろう。
III.子どもが見えるようになるには
子どもが見えるようになるために、自身の「子ども観」に対して絶対的な枠組みを設定することに重きを置くことよりも、目の前にいる子どもをありのままに見ることの方が重要であろう。ただ枠組みをつくることでその子どもの長所、短所、発達の程度、問題を把握し、対応の方法、解決の糸口を自分なりに探し出すことが容易になってくることはある。しかし、それは自分なりの尺度で子どもを測り、評価しているに過ぎない。例えば、保育者は、子どもの予想される姿、子どもへの期待に対して生じた問題も自身の尺度に合わせて解釈し、問題が自身の捉え方のズレにあることを意識せず子どもに帰属したものとして考えるときがある。
また、枠組みをつくることは、確固たる信念をもって子どもの在り方を捉え、それを教育・保育実践に反映させればよいということではない。幼児教育・保育の場での実践においては、当然のことであるが必ずや保育者側の主観が入り込むこと(勿論、主観の反映されていない実践はありえないが)になり、それは保育者がこれまでに出会った子どもから得た経験則やデータに依拠した実践ということになる。勿論、子どもを観察することで、子どもを理解しようとすることは重要である。モンテッソーリは、先入観をもたずに子どもを観察することで自身の教育法を導き出したことで知られている。
一方、「観察」による子ども理解で注意しなくてはならないことがある。子どもの現象をはじめとして、子どもの内面、他者(子どもや大人)とのかかわり、生活そのものと周囲の生活とのかかわりなどを観察することによって知り得たこと(子どもの様子、実態等)が必ずしもその子どものすべてではなく、また客観的なものでもないということである。これらは「調べること」によって得た「データ」としての子ども理解であり、この方法だけでは生きた子どもの姿を捉えるのは難しい。逆に、子どもを感性豊かな子ども、気持ちの強い子ども、優しい子ども、わがままな子どもなどと概念化して捉えることも、包括的な子どもの捉え方となってしまうことも加えておきたい。
観察者としての態度は、目の前の子どもを、あるいは子どもの表現する世界を対象化して眺めるということになる。対象化することで観察、分析し、その知見を子どもを理解することに用いることには、それはそれとして意味があるが、対象化することで現実の生活から場面から切り離したところで捉えたデータをもとに子どもを捉えようとしても、それはありのままの子どもではない。津守真は、「観察」の構えでは、子どもと保育者とを融合させることは難しいと指摘する。「融合する」とは、「心が繋がる」ことと解釈してよいだろう。保育者は、子どもと「融合する」、「繋がる」ことで、子どもの内的世界の表現としての意味を理解することになる。子どもと場や物を共有するのではなく、行動を共有しながら心を通い合わせ、繋がることが大切になってくる。子どもを見るということは子どもを対象とて見るということよりも、子どもが見ている世界をその子どもの側から共に見る、共に感じる、ということである。
次に、子どもにかかわりながら子どもが見えてこない理由に触れたい。「私たちは、『人間』とは何かという問にたいしては、一義的な回答を留保しようとするが、それが『子ども』とは何かという問題になると、かつて自分も子どもであった経験も手伝って、かなり安易に子どもを規定しがちである。おとなの子どもを見る『眼差し』や『期待』が、そのまま子どもの本性として刻印されて」2)しまい、我々大人は、子どもの視点で見るということへの認識が欠如している。保育者についても、「保育において、子どもを見るおとなの目は、おとなである私自身の考え方や性質、私の存在そのものに内在する傾向などが妨げとなって、子どもをそのまま見ることができなくなっている。」3)との指摘もある。これらは、子どもを見ることの難しさを示してくれると同時に、「ありのままに見る」ということが子どもを受け容れることの契機になることを示している。ただ、そこに共通する問題として、見る側の「構え」と言う問題が生じてくる。
先入観なしに子どもを見なさいと言っても、前提知識や枠組みなしで子どもを見ることは難しい。これはどうしようもない事実である。我々は物事を白紙の状態で見ることが可能であるかというとそうもいかない。つまり、何かを見るとき、その見方は必然的にある種の枠組みをもとに見ているし、枠組みに依拠していることが常なのである。むしろ、前提となる知識なり、枠組みをもとにせず物事を理解することの方が難しい。「おとなの心の中にある先入観や枠をとり去る努力がおとなの側に必要になるのである」4)と津守は言う。「ありのままに子どもを見る」、「子どもから学ぶ」と言うが、保育者が子どもを見るとき、いかに白紙の状態で子どもを見ているとしても(見ているように思えても)、実際は既成の子どもの見方に縛られていることになる。ルソー、ペスタロッチ、フレーベル、モンテッソーリが、子どもをありのままに見るように説いたのは、まさにこのようなことを了解した上で、子どもの視点に立つならば、どうすべきかと問いかけてきたのではないだろうか。
IV.「子どもを見る」ための「構え」
傍観者、命令者、管理者である大人に対して、子どもは本心を表さない。」5)との指摘は、保育者の子どもを見る構え、あるいはかかわる構えを端的に示している。筆者は、子どもを見ようとして見るという「構え」は当然必要であると考える。勿論、偶然にも、図らずも気づく(気づかされる)ということはある。ただ、見ようとして見るという積極的で、主体的な「構え」をもたなければ、既成の枠組みが見ることを妨げ、見えてこなくなるのではないかと考える。
「子どもを見る目」をもち、「子どもを見る心」をもって子どもを理解することの難しさは、自分(保育者、大人)自身の内にある。一方、子どもを見るときの内面の問題についても考える必要がある。例えば、保育者側に子どもへの期待、不満が存在するとき、そのような思い(心の状態)は、ありのままの子どもと出会わせることを困難にさせてしまう。非常に抽象的な言い方であるが、保育者側の心の在り方が見る目を曇らせるのである。保育者が、自身の経験や知識によって子どもを対象として解釈することについてはすでに述べてきたが、このようなことを踏まえて、子どもをありのままに見るための具体的な構えについて触れたい。
津守は、自身の眼を完全に透明にすることは到底できないとしながら、「同じ子どもと顔を合わせていても、心がかみ合わないとき、私の心の中にある概念の殻や、無意識の前提が、子どもをそのまま見ることを妨げることが多いのではないかと思う。その日の予定や計画で頭がいっぱいになっているとき、特定の理論の枠に合わせて子どもを見ようとするとき、善悪、正常などの規準をもって見て、それの相対性に気づかないとき、その観点からしか子どもを見ることができなくなる。」6)と言う。そこで次のことをありのままに見ることの起点としたい。
1)受容と共感
すでに幼児教育・保育の現場において成熟し、定着した用語・概念となっているが、子どもの行為を保育者自身が自分ごととして受け容れ、理解することである「受容」と「共感」は不可欠な構えであろう。まさに、子どもを見るときには、子どもの生活にかかわりながら、子どもの行為や表情、言葉などに表された感情に、自分の感情を重ね合わせながら、子どもの気持ちを自分ごととして感じ取り、子どもの感情を共有することが子ども理解の鍵にもなるだろう。思うに、共感することは、子どもの表現する世界を自分ごととして共有することから始まるのではないだろうか。
2)現象面を多面的に捉え、子どもの心に近づく
実際に、子どもを捉えるのは、現象面から子どもに迫り、個々にあっては子どもの生活、つまり、自己形成の時間と場所を捉え、保育者が子どもとのかかわりの展開を理解することが重要となってくる。
「子どもと交わる中で見るときに、私は子どもの世界を見ることができたというたしかな感じをもつのであるが、それは、私にとって、だれにも頼らない、自分自身の『見る』行為である。保育の実践は、同労の保育者との協力のたのしみがありながら、自分の目以外には頼ることができない点で、孤独な作業である。」7)と言うが、まさに子どもを見る目を養うことは保育において不可欠である。子どもにもっとも近い大人である保育者が、子どもに寄り添うことによって子どもが願うこと(もの)を見出し、子どもを見る目をもてたとき、子どもにとっての「遊び」、「環境」の意味が見えてくるし、現場において、生きた子どもの姿を捉え、子どもが何を欲しているか(したいのか)という志向性を見極めた「指導」なり「援助」を行うことができてくるのではと考える。
〈注〉