内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第37号
特集:乳幼児期の探究II

「言葉」を通しての子どもと大人の位置関係についての考察
八木 浩雄 明星大学大学院 院生
はじめに
幼児期の子どもの教育環境と「言葉」
子どもにとっての「言葉」との出会い
終わりに

はじめに

先の『研究紀要』第36号「乳幼児期の探究T」において、筆者は「子ども観」を考える上での「大人の立場」として、それぞれ子どもと大人の「立場の違いを認識した上での対話」の在り方に注目する必要があると結論した。それは、その時々の子ども・大人双方の立場や価値観に違いがあることをむしろ大人の側が積極的に認め、意思の疎通を図るための姿勢を持つことが大切であるとしたのであるが、本論ではさらに子どもと大人の意思の疎通の間を取り持つ「言葉」に注目し、両者の位置関係について論考を進めて行きたいと思う。

ところで、一般的に人間にとっての「言葉」とは、あらゆるものが「言葉」によって説明されることから、身の回りの事柄を自分自身が認識するための媒体そのものであり、またそれぞれの対象を把握するための手段としての意味合いがあり、さらに自分自身が知識として理解する際の事柄そのものをあらわす象徴としての役割を持っている。また、あらゆるものが「言葉」を通して理解されることとは別に、人間は自らの意思を「言葉」によって表現し、他者に伝える手段としても用いている。

つまり「言葉」とは、外界からの情報を自らの内に取り込むための媒体またはプロセスであると同時に、自らの内にあるもの−例えば考えや感情など−を周りの人に伝えるための媒体または手段という二面性を持っている。

こうした「言葉」を介しての物事の理解または他者との意思伝達の在り方は、人間が生まれながらに備えているというよりは、幼い頃より周りの人々特に親や保育者(保育士や幼稚園教諭など)を通して身につけていくひとつの習慣のようなものであるといえる。「言葉」即ち言語理解の能力は、人間として生きていくための能力のひとつとして「教え込まれ」ていくのである。

子どもにとって乳幼児期の早い段階からはじめて接する「言葉」を通しての世界は、既に「言葉」を日常的に使用している私達大人とは全く異なる意味合いを含んでいるといえるのではないだろうか。

幼児期の子どもの教育環境と「言葉」

先ずは子どもと「言葉」の在り方を考える前段階として、子どもを取り巻く教育環境について概観して行きたいと思う。

今日、幼児期の子どもに対する教育は、保育所や幼稚園または認定子ども園など(以下、ここでは「幼児教育施設」と総称しておく)に通うとともに、それぞれの家庭での教育(しつけ)によってなされている。現在のところ、保育所は児童福祉の立場から、また幼稚園は就学前教育の立場から、そして認定子ども園は児童福祉・就学前教育の連携の立場から設置された幼児教育施設であり、元々それぞれの設置目的は若干異なるものとして規定されている。しかし、幼児期の子どもについて関わる姿勢にほとんど差異はなく、「子どもにとっての最善」に配慮した姿勢で保育や教育に臨むことが基本となっている。

ただ、本来の幼児教育の在り方として考える場合、家庭での生活こそが子どもにとって最も重要な教育の場として位置づけられる。即ち、それぞれの家庭での教育を支えるものとして幼児教育施設は存在している。それは、どの幼児教育施設に通う子どもであっても、それぞれの家庭での生活があり、その家庭生活の中にある教育では、幼児教育施設にある設置目的のような類別はなく、ただその子どものために生活と教育が根付いているのである。

2006(平成18)年12月22日より教育基本法が改正され、第10条で家庭教育について「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。」と、また第11条で幼児期の教育について「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。」と新たに規定が追加された。(傍線は筆者)

子どもにとって家庭での教育が如何に大切であり、また幼児期の教育がその子どもの成長発達に重要であることは、教育基本法改正で規定されるまでもなく、教育の分野においてはひとつの自明の理として扱われていたことではあったのだが、この度新たに規定されたことによって家庭教育の大切さや幼児期の教育の重要さがより一般的に位置づけられたことは注目に値するといえる。

ところで、家庭との連携に十分配慮した上で進められるべき幼児期の子どもの教育について、特に幼稚園の場合で注目すれば、現行の幼稚園教育要領(1998(平成10)年12月改訂)では「幼児の発達の側面」に留意した上で「健康」・「人間関係」・「環境」・「言葉」・「表現」の5つの領域について総合的な指導が求められている。また、保育所での乳幼児期の子どもの援助・指導の際にも、この5つの領域に基づく保育内容が現行の保育所保育指針(1999(平成11)年10月改訂)によって明らかにされているが、これらは必ずしも明確に各領域として区分され取り扱われるものではなく、子どもの発達と活動に留意した上で、総合的に取り扱われるものとして位置づけられている。即ち幼児教育施設は公教育(施設)としての便宜上、子どもに対する5つの着眼点のもと保育・教育内容が整えられ、家庭との連携を図るように求められている。家庭での生活において、あえてこのような領域を意識して子どもに接することは、先ずありえないことではあるが、「家庭との連携」がより強く求められてきている幼児教育施設の保育・教育内容を、家庭の側が知っておくことも今日では非常に大切なことであるといえるであろう。

さて、本論で問題としている幼児期の子どもの「言葉」についての取り扱いに注目していくと、幼稚園教育要領では「言葉」について、「経験したことや考えたことなどを自分なりの言葉で表現し、相手の話す言葉を聞こうとする意欲や態度を育て、言葉に対する感覚や言葉で表現する力を養う。」ことを求めている。そして、3つの「ねらい」を掲げ、具体的には10の「内容」を示し、更に3つの「内容の取り扱い」についての留意点を挙げて、幼稚園での子どもの言葉の発達・育成に関わるよう規定されている。

それぞれ「ねらい」・「内容」・「内容の取り扱い」についての詳細は省くが、この幼児期における子どもの「言葉」の取り扱いについて総じて言えば、「言語という文化の主体的なにない手となることを目的とした教育。乳幼児期の場合には、言語文化への参加を認め、子どもが言語を意識化する時をとらえて適切な援助をする。」注1)言語教育の一部を支えるものとして位置づけられている。

無論、「言葉」というものが相手からの話に用いられ、また自分自身の意思を伝えるための手段であることから、子どもを取り巻く「人間関係」や「環境」的な意味合い、そして「表現」としての意味合いも含んでおり、小学校以降の学校教育での国語科のような教科としての理解とは大きく異なっている。

例えば、生まれて間もない赤ん坊にとって泣く事や喃語(なんご)などは、その時の自分自身が持つ表現の全てであり、見方によってはその意思表示そのものは、(赤ん坊としての)言語表現と同じと見做すことができる。特に親や周りの人々は「ん?どうしたの?お腹が空いたの?」といった形で言語的な理解に努め、言葉足らずな赤ん坊の意思表示を読み取ろうとする。つまり、家庭や幼児教育施設での言語教育に伴う言葉の取り扱いは、子どもと親や保育者または他の子ども達同士の広い意味での意思の疎通と自己表現の構築としての意味合いを含んでいる。

よって、教科に区分され教科書等による画一的な指導となる小学校以降の学校教育は、それまでの幼児教育における言葉の取り扱いとは全く異なるものとなりうるのだが、乳児期・幼児期における子どもの成長発達はその後の人格形成に大きな影響を与える大切な時期でもあり、その中での「言葉」の取り扱いは教育的な意味合いの枠を超えて(その子にとって)大変重要なものとして位置づけることができるのである。

ところで、こうした幼児期における子どもの「言葉」について、家庭または幼児教育施設での生活を通して育成がなされる中で、「言葉(言語)」によって支えられる世界にはじめて接する子どもと、それまで「言葉(言語)」を日常使用している親・保育者をはじめとした私達大人との間には、考慮しておくべき立場の違いが潜んでいるように思われる。

そこで、「言葉」の理解に伴う子どもと私達大人との位置関係について、次に「言葉」の育成のプロセスを踏まえながら考えて行きたい。

子どもにとっての「言葉」との出会い

子どもが「言葉」を知り言語としての理解を深めていく中で、親や保育者など周りの人人の関わりが大切なことやその上での留意点については、幼稚園教育要領などに整理されていることとして既に確認してきたが、ここでは「言葉」をはじめて知る子どもと既に「言葉」を知っている親・保育者など私達大人との立場の違いについてさらに考察を進めて行きたい。

子どもは、生まれてから先ず泣き声を上げ、喃語や一語文(一語発話)や幼児語などを経て、3歳前後にはある程度の言葉(言語)の完成に至るとされている。この言語概念の構築は、子どもの成長発達に伴う生得的なものと考えられている一方で、その子どもが生きる社会など文化的な影響にも関わるものとして考えられており、教育の問題として注目してもその扱いは非常にデリケートなものとして位置づけられている。

例えば、幼児語のように乳幼児期の子どもの独特な表現や簡単な単語は、親や保育者の育児語と併せて順次一般的な語彙の拡大に向けていくなど長期的な訓練の中で取り扱われている。そして、そうした経験を経て、子ども自身は「言葉遊び」など遊びとしての活動の中で言語そのものの理解を自ら深めて行く。親や保育者など周りからの「言葉」の投げかけは、その後子ども自らの経験・学習行為の中での語彙の獲得へと広がりを見せていくのである。

幼稚園教育要領では、「言葉」の領域の「内容の取扱い」のひとつとして「言葉は、身近な人に親しみをもって接し、自分の感情や意志などを伝え、それに相手が応答し、その言葉を聞くことを通して次第に獲得されていくものであることを考慮して、幼児が教師や他の幼児とかかわることにより心を動かすような体験をし、言葉を交わす喜びを味わえるようにすること。」との留意点を挙げているが、まさに子どもが「言葉(言語)」と最初に触れ合う際の私達大人の大切な位置関係をうかがい知ることのできる内容を示している。

日頃「言葉」を使う大人の側が、子どもに対して「言葉」を投げかける位置関係の重要さについてもうひとつ別の視点から考察を試みてみたい。  日本の哲学者の一人である和辻哲郎(1889−1960)は、幼少期の思い出として「茸狩り」についての記述を残しているが、その中に興味深い指摘がなされているので取り上げてみたい。「茸狩り」は和辻が1936(昭和21)年に雑誌『思想』の11月号に寄せた随筆であるが、幼少期に体験した茸狩りを振り返り、その中で知った茸の価値とその価値を知るまでの経緯について、和辻の鋭い視点が明らかにされている。

茸の価値を子供に知らしめたのは子供自身の価値感ではなくして、彼がその中に生きている社会であった。すなわち村落の社会、特に彼を育てる家や彼の交わる仲間たちであった。さまざまの茸の中から特に初茸や黄茸や白茸やしめじ茸などを選び出して彼に示し、彼に味わわせ、またそれらを探し求める情熱と喜びとを彼に伝えたのは、彼の親や仲間たちであった。言いかえれば、社会的に成立している茸の価値を彼は教え込まれたのである。それと同時に彼はまたいずれの茸がより多く尊重せられるかをも仲間たちから学んだ。年長の仲間たちがそれを見いだした時の喜び方で、彼は説明を待つまでもなくそれを心得たのである。」注2)(傍線は筆者)

幼少期に楽しんだ茸狩りの思い出を通し、和辻は子ども時代に身につけた茸に対する価値感を、親や年長の仲間そして彼の周りにある社会が教え込んだものとして分析した。和辻によれば、最初子どもにとっては「初茸の味と毒茸の味とを直接に弁別するような価値感は存せぬ」のであり、茸そのものの味に対する価値や希少的な価値などは、周りの人々が自らの体験を通して子どもに教え込んだものとして、そしてそれにより子どもは茸を例とした「探求の目標」注3)を与えられたということを明らかにしている。

乳幼児期における子どもにとっての「言葉」との出会いとは、まさにこの和辻が体験した茸に対する価値感の獲得に類似するものがあるといえる。

当初子どもは、はじめて接する親や周りの人々が話す「言葉」をその意味も知らずに体験していく。そうした体験を繰り返す中、子どもはなんとなく「言葉」というものを知っていき、そして自らの意思表現に用いていくことに努めていくようになる。

しかし、ここで注目しておきたいのは、子どもが「言葉」を知り言語を獲得していくプロセスではなく、子どもに影響を与えた周りの環境即ち大人が伝える「言葉」の集約が子どもに反映されているという点である。

和辻の茸狩りの経験にもあるとおり、当初は周りの人々と同じ価値感を共有する形で茸の価値を知るが、その後茸に対する価値は、自らの価値感のもとで広がりを見せていく。

「そこで振り返って見ると、茸の価値をこの子供に教えた年長の仲間たちも、同じようにそれぞれの仕方においてこの価値を体験していたのであった。」注4)と和辻は指摘し、これを「自己没入的な探求の体験の相続と繰り返し」注5)と呼んでいる。そして「茸の価値は茸の有り方でもあり、その有り方は茸を見いだす我々人間の存在の仕方にもとづくものである。」注6)(傍線は筆者)ことを明らかにしている。

幼児期の子どもに対する言葉の育成は、先に見たとおり私達が生活する「言語文化への参加」のための訓練としての意味合いも含んでいる。そして、子どもに言葉を投げかける親や保育者の言葉そのものが子どもにとっての最初の言葉として大きな意味を持ってくる。と同時に、「言葉」を教えることをとおして、その内容は子どもに教えられた「言葉」として反映される結果が潜んでいることを意味している。

終わりに

以上のように、幼児期における子どもにとっての「言葉」の在り方について考察を進めてきたが、子どもにとって「言葉」を身につけていくということは、当初親や保育者をはじめ周りの人々による影響の下で構築される「環境」としての意味合いを多分に含んでいる。

また人間は、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚など様々な感覚を通して周りの事柄を知り、また他者との意思疎通の際の手段に用いているが、皮肉なことに「言葉」として規定し整理できないものについての理解や表現は非常に困難であるという複雑さを有している。幼少の頃にお伽話として聞いた浦島太郎の話の中に、竜宮城の様子をあらわすものとして「絵にも描けない美しさ」というものがあったが、まさにこの感覚に近いものがあるといえるだろう。表現しようにも表現しきれない最上の美しさを仮に「言葉」で説明したこの言葉は、幼いながら可能な限りイメージする竜宮城の様子を尽きることなく膨らませ、想像力を掻き立てた事を今でも記憶している。

人間は、物事を知りまた思考する上で「言葉」によって支えられ生活している。その意味からも幼児期より子どもに対して「言葉」を教えることは非常に大切なことではあるのだが、その際私達大人が子どもに対して投げかける「言葉」そのものについて今ひとつ注目しておく必要がある。

子どもは、やがて「言葉遊び」をはじめ自ら「言葉」を紡ぎだしていくことになるのだが、子どもを取り巻く環境の出発点は、家庭からはじまり地域・社会へと広がっていく。諺に「門前の小僧、習わぬ経を読む」との例えもあるとおり、言葉に限らず子どもが何かを覚える際には、本来大人が意図しているものとは違った形でさまざまなことを身につけていくということは、よくあることだといえる。よく幼い子どもが大人の予想を超えて物事を知っているとき、大人はその子どもを「ませた子ども」と呼び驚くこともあるが、当の子どもにとっては何が歳相応で何が歳不相応なのかは関係がなく、ただ興味関心のままに知っただけに過ぎないのである。そしてその子どもは、ただ様々なことを見聞きする環境にいたという事実がそこにあるだけなのである。

つまり、子どもが身につけ話す言葉は、その子どもを取り巻く環境そのものの「言葉」の在り方の反映の一端であることを見落としてはいけないのである。

昨今教育上の問題として「国語力の低下」や「日本語の乱れ」について問題視されることが度々あるが、当初幼児期において無条件に「言葉」を教える立場にいるのは、親であり保育者であり私達大人であることは紛れもない事実である。テレビやラジオまたは新聞や雑誌、そしてコンピュータなどメディアの発達に伴い、子ども達自身はそれぞれの意味を知る前から裸の状態で、さまざまな形で言葉攻めの波に晒されているといっても過言ではなかろう。そうした状況や立場を考えた際、子ども達の使う「言葉」は、むしろ私達大人が日常使っている「言葉」の反映であるということに注視しておく必要がある。

より厳しい言い方をすれば、子ども達の「国語力の低下」や「日本語の乱れ」が社会的に問題視された場合、それは子ども達そのものの問題なのではなく、子ども達の側から私達大人に対して「あなた達大人の語彙力の低下の結果である」とのメッセージを投げかけていると捉えるべきなのではないだろうか。


〈注〉
注1)森上史朗・柏女霊峰編『保育用語辞典 第3版』ミネルヴァ書房 2004年 76頁
注2)坂部恵編『和辻哲郎随筆集』岩波書店 1995年 70頁
注3)同前書 71頁
注4)同前書 72頁
注5)同前
注6)同前

【参考文献】
・森上史朗・柏女霊峰編『保育用語辞典 第3版』ミネルヴァ書房 2004年
・坂部恵編『和辻哲郎随筆集』 岩波書店 1995年