内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第38号
特集:乳幼児期の探究III

「子育て」にメディア・リテラシーの力をつけよう
玉井 美知子 元 文教大学女子短期大学部 教授
まえがき
1.あふれる「子育て情報」とどのように付き合うか
2.子ども集団内の人間関係と個性
3.子育てと老親介護
おわりに

まえがき

「子育て」は、過去・現在・未来を通じて永遠の課題といえよう。そして、それぞれの時代に於ける育児法があったし、現代にも現代流の方法がある。最近の特徴として、あらゆる情報が容易に、かつ安価に入手できることがある。ここ数年急速に導入された情報伝達機器としてパソコンやインターネット、携帯電話など、子どもから高齢者まで活用しているが、特に若い世代の人々はそれらを縦横に駆使している。

しかし、ここで考えねばならないことは、それらの使用方法を間違ってはいけないということである。つまり一歩退いて、情報とはなにかを考えてみることである。情報(意見や感想を含む)を他人に伝える手段・媒体(道具)がメディアである。このメディアを使って、不特定多数に情報を伝えるのが「マスメディア」である。「メディア・リテラシー」と言うときの「メディア」はこのマスメディアを意味する。メディア・リテラシーはメディアの内容をそのまま受け止めるのではなく、自分なりに考え、判断する力のことである。

最近は情報をただ1回だけ読み、深く考えないで処理するといった習慣が目立つが、そこに大きな落とし穴がある。

読書(活字)から入手した情報でも不正確な受け取り方が多いことに気づく。保育所・幼稚園の「連絡帳」や「園便り」などの、保育士と保護者との互いの文章の読み違いによるいろいろな手違いなどが例としてあげられる。では、このような弊害を少しでも除去するにはどうすればよいか。それは簡単に論じることは出来ないが、まず一歩でも前進することを目標にするならば、読書をより多く取り入れるのが一つの選択肢であろう。分かりやすく言えば、読書の習慣をつけると同時に出来るだけ正確に内容を読み取ることである。同時に自分で納得するまで考えることである。単に情報を受け入れてそれを確かめもせず信用し、それによって自分の行動を決めるといった例は大人にも子どもにも多い。パソコンやインターネット、携帯電話などは大いに活用し、その使用にあっては以上に述べたような留意事項を忘れないようにしたい。

子育ての夢を実現するように、まず親(保護者)からメディア・リテラシーの力をつけるように努力を惜しまないことである。

1.あふれる「子育て情報」とどのように付き合うか

世界中が情報過多の時代である。日本もテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネットなど溢れるほどの情報の渦中にある。私たちは、そうした情報によって行動しがちであるので、それらの情報を可能な限り間違いなく解釈して行動しなければならない。「子育て」についてもそれが言える。親たちを駆り立てるのは、「先取り症候群」とも言うべき、行く末への不安感なのである。乳児から幼児になって保育所や幼稚園に行くようになった時、いじめられないようにするにはどうしたらよいかとか、小学校へ進んだ時「登校拒否」をするようになりはしないかとか、次から次へとわが子にまつわる心配が増えてくる。情報が過剰で2・3年後や10年後のことが心配で、かえって現在のわが子に目が注がれていない。わが子がなぜいじめられるのかと言うことは、親にしか分からないのに、その原因が探究されていないようである。

このように「先取り情報」が氾濫している社会に生きている以上、これらについて出来るだけ必要な知識を持つ努力をしなければならない。「先取り情報」という、予測を含んだ情報に従って行動する時は、どれだけ正確な条件でそれが予測されているかを調べてみることである。

では、このような「情報」とうまく付き合うにはどうすればよいかと言うことになる。インターネットなどで情報を集めたとしても鵜呑みにしないこと。実際に資料を集めに行ったり見学や体験をしたりして、信頼性のある必要な情報を選別することが大切である。また、公的機関の相談施設などを利用することも一つの方法である。そして、「子どもからの情報」を得ることである。まず、子どもの表情、顔色などを観察すること、家庭内で平素から何でも話し合えるような雰囲気を作っておくこと、そして議論し合うことである。そうすれば、自分の子どもの考え方が分かり、親の考えも子供に伝わる。さらに、子どもに何か異変があったときなどは「どうもおかしい」ということもわかってくる。極めて初歩的な対応だが、心にとめておきたい。

子育ての過程で誤った情報を受け入れたため取り返しのつかない結果に終わった例は多くある。子どもは善に向かう可能性と同時に悪に向かう可能性を持っていることを忘れないようにしたい。

2.子ども集団内の人間関係と個性

集団生活の中では、わが子の個性が押しつぶされるのではないか、と考える親からの相談が多く見られる。よく相談の内容を聞いてみると、わが子の個性は他の子どもから切り離し、わが子だけが持つ独特のもののように思っているようである。さらに個性を伸ばすということと、一人ひとりが集まって集団生活が出来るようにするためにその集団内の規律、ルールや約束事を守る生活活動をすることとは別のことであり両立しにくいと思い込んでいるようでもある。

したがって、保育所や幼稚園などの友達集団のなかで生活して、そこで身につける基本的生活習慣の指導などはみんなと同じことを押し付けられて、わが子の個性をつぶしてしまうというのである。また、音楽や体操、球技、絵画などの教室で個性は伸びるのだと早合点をしている親も少なくない。つまり個性と言う言葉が独り歩きして親は自分の都合の良いように個性を定義しているのである。幼児にとって保育所や幼稚園の保育の集団の中で初めて友達とのびのびと活動することによって、その幼児の子どもらしい姿が見られる。個性は仲間と切り離されたところにあるのではなく、仲間との関係の中で相互に刺激し合い、学びあって、個性が育つものなのである。したがって、集団の教育と一人ひとりの個性を伸ばすことで教育は両立する。集団の中で個性が育つと同時に、一人ひとり集団を育て合っているのである。

個性の芽生えは一時的な観察だけでは発見できない。また個性は内部的な要因、外部刺激によって、成長発達し変化していくもので、それに対応する為の親の心構えとしては規律(ルール)のある、しかし、干渉が多くなく、愛情と安定に溢れた環境を作り、その中で子どもの興味や関心を育てていくことである。

個性の発達の大切なポイントは、依存性から自立して自分で考え、自分で判断し、自分自身の行動になるようにすることである。そのためには、親としては子どもの身の回りのことは、自分で出来るように援助し、次第に言動に責任を持つことが出来るようにすることである。自分で出来たことどもの大きな自信につながり、自立へと成長する。

幼児・児童の時代に規律を守ることや、その他の行動様式を躾けることを重視している英国のパブリック・スクールについて「自由と規律」(池田潔 著)のなかで、社会で活躍していくために基本的生活習慣の習得が大切であることが述べられている。そのような習得がされていない人が社会の中で自らを伸ばしていくことは考えられない。ただ、注意しなければならないのは、それらを身に付ける方法が叱責や強制で形式的であるならば、感情を自由に表現したり、のびのびと話し合えることを、押さえつけたりしてしまっては個性の伸長は妨げられてしまう。そのようなことにならないような関わりや援助は親(保護者)や保育士などに課せられた責務であるといえよう。

個性の尊重と言う表現は時として、その場で都合よく解釈されていることが多い。時にはプライバシーと絡めて論じられ、集団の中の個人で在りながら、あたかも集団外の人間であるかのように振る舞い、それを個性の尊重と称している例も見られる。しかもまだ自己意識の育つ過程にある幼児、児童の行動についてもそれが本人の個性的、自主的な行為であるとする大人の主張も多い。

個性の尊重についてここで強調したいことを要約すれば、個性とは人間集団の中の一人として存在する個人であるという条件の下で考えられることで、単なる抽象的な個人や個性は在りえないということである。

3.子育てと老親介護

「乳幼児期の探究III」として子育てを中心に激変する情報社会の変容をとりあげた。

私たちの周りを眺めると子育てと同時に要介護の高齢者の問題があることに気がつく。 この二つを同時に、若い夫婦が行うことになると、そこには国政と共に解決しなければならない、大変困難な問題が山積みになってくる。

具体的な家族の例を挙げると、「ある家族は夫婦と子ども二人の場合、別居していた夫婦の両親が高齢になって1人で動けず、どうしても、ひきとって世話・介護をしなくてはならなくなった。夫の親と同居となる妻(嫁)は、老親二人とわが子の世話をすることになり、それはまず続かないことで、不可能なことである。老親の方に施設に入所してもらいたくても、その余裕が施設になく、また一刻を争うほどの問題でもないといった状況なので、若い夫婦は途方にくれている」といった例である。

多少家族の条件が異なるにしても、こうした例は、社会が高齢化するに連れて、ますますこのような状態は増加するであろう。介護保険制度が新しく実施されると一つの理想的な問題解決であるが、このような悩みはますますエスカレートすることになろう。

次は問題の解決法として子育てと高齢者の介護である。一例を挙げると、保育所・幼稚園と高齢者ホーム(施設)を隣接(同棟)して両者が自然的に交流をするような施設を造ることも問題解決の一つである。

他の一つの方法は働く女性の子育てのために女性の職場の施設内に、または隣接して、子どもを預ける施設を造り、出勤時は、わが子と同伴で出勤し、子どもを企業内保育所に預ける。授乳時は決められた時間内にわが子の所へ行って過ごし、退社時は子どもを連れて帰宅できるような方法がある。それに加えて、保育所で子育てについて、保育士や園長から具体的な助言が受けられる機会も作られよう。このシステムは子どもの父親でも出来るであろう。

親とは、たとえ地理的に離れて暮らしていても、何か異変が起きれば、直接世話をしなければならない。そのとき核家族であっても、そのそばには介護を必要とする老親がいる。最近の若い夫婦の間には、両親の介護は、国政で実施してもらい、自分たちはわが子の子育てをして、子育てが終わったら、老後は楽しく余生を送ろう、という風潮がある。これは自分たちだけに重点を置いた考え方で「視野が狭い」と言わざるを得ない。

親が子育てに全力を注ぐのは、1つには子どもが成人して望ましい社会人となってくれることを願うからであるが、その他に、自分たちが高齢者になった時、わが子が面倒を見てくれるという因果関係があるからであろう。しかし「老老介護」をせざるを得ない時代が迫っていることを覚悟しておかなければならないであろう。

おわりに
 −避けて通れない21世紀の家族と子育ての課題

(1)高齢化人口の増大と「老老介護」

日本の家族は長寿化の結果、高齢者の層が厚くなって、介護者の方も高齢である場合が増えた。1956(昭和31)年、国連の会議で当時の先進国の高齢化率をもとに65歳以上の割合(高齢化率)が全人口の7%以上の社会を高齢化が進行している社会とし、これが現在の高齢化社会の定義として定着した。

その後、その倍の水準、つまり14%を超えた社会を「高齢社会」と表現するようになった。また平均寿命も延びつづけていて、2003年7月に発表された平均余命の2002年簡易生命表によると、寿命は男性78.72年、女性85.23年と世界一を更新した。現在の少子化と長寿化の傾向がつづくと、2014年には高齢化率25.3%となり、4人に1人が高齢者となる見込みである(2002年1月推計)。

現在は主な介護者の半分以上が60歳以上、70歳代の嫁が90歳代の姑の介護をする、高齢の妻が高齢の夫の介護をする(その逆のケースもある)などを「老老介護」という。「高齢化社会をよくする女性の会」の樋口恵子代表の調査によると、介護者側の女性の半数以上が自らの病気のために通院しているということである。老老介護で共倒れとなるケースも、このままだと増えてくることが推察できる。

(2)高齢社会の女性の人口増大と家族介護

高齢社会の女性の量的存在により家族介護が女性に集中する。人口動態から推計して、とくに女性の高齢者人口の量的存在をどのような社会の原動力にしたらよいかということが、これからの課題となろう。

これからは「老老介護」を視座にいれて、男女家族全員が役割分担する意思と簡単な日常の介護、看護の技能を学び身につけながら自分のことは自分でできる実践力を積み上げていく自助努力がますます必要になってくる。

なお国の介護施策や介護法制度などの情報に若いうちから関心をもつことが、これからの高齢社会の賢い生き方になるであろう。

(3)元気な高齢者のボランティア活動を受け入れる社会をつくる

家族の中での精神的不調和や肉体の老化による「介護」は終わりのない仕事である。

元気な日本の高齢者は現在より長い年月をすごすようになる。高齢者は自助努力とボランティア活動の相互補完によって、高齢者自身が社会におけるその意義や役割をはたし、生きがいをもって積極的に参加できるようになるだろう。また、これからの社会は高齢者と若者が共同参画するボランティア活動もできる社会をつくり個々の生きがい、技術、健康などに応じて無理なく支え合う仲間をつくるならば、老若男女が互いに「温故知新」という、多様な体験をする社会がつくられるようになるであろう。


〈引用文献〉
玉井美知子 編著 「新しい家庭教育の実際─子どもの自立をめざして─」 ミネルヴァ書房(2000年)
玉井美知子 編著 「テキストブック 家族関係学  ─家族と人間性─」 ミネルヴァ書房(2006年)
〈参考文献〉
池田潔 著 「自由と規律」 岩波書店 改版(1993年)
池上彰 著 「メディア・リテラシー入門」 オクムラ書店(2008年)