保育制度について
保育を中心とした再構成
まとめ
はじめに
「幼児の教育といえばだれしもフレーベルを思い出さない者はないであろうが、オーウェンを思い出す者は少ないのではあるまいか。」(1)
ここにあるように、幼稚園の創始者と云われる、フリードリッヒ・フレーベルについては、日本で保育に携わる者であれば知らない者はいない程、少なくとも名前だけでも知られている。片や、今日我々が保育所と呼んでいるものの起源である「幼児学校」をつくった、ロバート・オーウェンについては、研究者は別として、保育現場に身を置く者には知らない者も多数いる。これは日本の民間教育・保育研究団体である「教育科学研究会」(教科研)、「保育問題研究会」(保問研)の創始者である、城戸幡太郎の言であるが、ご当人についても同じ物言いが可能ではなかろうか
つまり「幼児の教育といえばだれしも倉橋惣三を思い出さない者はないであろうが、城戸幡太郎を思い出す者は少ないのではあるまいか」と。
倉橋惣三と城戸幡太郎。共に昭和初期から我が国の幼児教育、保育の世界において、理論的支柱として活躍してきた2人である。倉橋は東京女子高等師範付属幼稚園主事、また雑誌『幼児の教育』編集主任を担い、保育についても活発な執筆活動を行っていた。現代でも保育を学ぶ学生に「児童中心主義」の提唱者として、名前や著作の1つなど知られている。
一方の城戸はといえば、昭和4年に設立された法政大学児童研究所を母体として、昭和11年に「保問研」を結成し、そこでの活動を中心としながら、機関誌「保育問題研究」を発刊する。また「児童中心主義」への批判から「社会中心主義」概念を提唱し、子どもをその子どもの生きている社会との相関からとらえようとする考え方は、「観念的で国粋主義の非科学的な教育内容や鍛錬主義が学校教育を支配している現実を改革するすぐれた遺産として従来より高い注目をあびてきた」(2)との高い評価を現在でも受けている。
にも関わらず、この両者の認知のされ方の違いは何であろうか。倉橋を知る者を100とした場合、城戸を知る者は5ぐらいではないのかとの印象を持つこともある。(3)
たしかに城戸の経歴には、現代から見ると首を傾げるようなものがある。昭和15年に結成された「大政翼賛会」のメンバーに名を連ねていた時期があることがそれに当たる。戦前日本のファシズムの完成形と今日云われるこの会に参画していたという事実は、確かに城戸の業績を語る際の汚点であろう。自身ものちに戦前の自分自身の態度を愚かなものであったと反省している。
だがこのような戦争協力的な振る舞いは、1人城戸だけかといえば、決してそうではない。多くの研究者、現場の人々が戦争協力、国策に沿った保育を進めた時代である。倉橋にも「今日本のしている戦争それ自身を幼児の眼や耳からはなしておくという事は今日では許せない。今日なお、何となくあの優しき保育に戦いを不向きと考えられる向きがあれば私は之を断乎反対致します」という、明らかな戦争協力の文章が多数残っている。(4)
城戸が今日、保育界に知られた存在でなくなったのは、その思想が戦争遂行に加担した愚かな古びたものだからではない。それどころか倉橋同様、今日まで脈々と受けつがれている豊かな保育思想の源泉であるといえよう。
城戸はその生涯で数回に亘って保育関連の著作を刊行しているが、その元となったのは昭和14年に著された『幼児教育論』である。その後昭和24年に『幼児の教育』、昭和43年に『幼児教育』、昭和54年に『幼児教育への道』と出版されているのだか、基本は全て『幼児教育論』となっている。例えば『幼児教育』の「はしがき」には次のように述べている。
「この書は昭和14年に『幼児教育論』として出版したものを、昭和24年に書き改めて『幼児の教育』として出版したものを、さらに書き改めたり書き加えて出版するものである。しかしその目的は書物の内容を書き改めなければならなくなったからではなく、専門に幼児の保育にたずさわられる指導者の方々だけではなく、一般に幼児の保育に関心をもたれることに御両親に読んでもらうため、出版社からの要望もあり、普及版として出版するのが目的であった。」
また「旧書を読み返してみると、書き改めたい節は多々に見出される。しかしわたしの幼児教育についての根本の考え方には変わりない」とも云う。(5)つまり城戸の保育思想については『幼児教育論』に全て網羅されているとみて差し支えないと考えられる。そこでいかに、そこでの発言の今日的価値を探っていくこととする。
保育制度について
「『幼稚園令』によって規定された幼稚園は託児所を兼ねるものであった。然るに幼稚園は文部省の所管に属し、貧児の救護は内務省の所管に属していたため、貧児保護の必要から設けられる保育事業は幼稚園に対し『幼稚園令』の規定を受けない託児所として別の系統から発達した・・・・・
かくして我が国における幼児教育は文部省系統の幼稚園と厚生省系統の託児所とに区別されるようになったが、幼児教育本来の目的からみて果たしてこの傾向は正しき方向への発展と考えられるであろうか」(6)
これは現在も続く幼・保二元行政について、城戸は疑問を投げかけているわけである。
大正15年に施行された「幼稚園令」によって、それまで「小学校令」の一部であった幼稚園が、法的にも独立した規定を持つものとなったわけである。「幼稚園令」の時点で諸外国の実例から、幼稚園が託児所を兼ねるのが望ましいと述べられているにもかかわらず、80年の歳月を経た現在も、二元行政は改まらない。それどころか、平成19年より「認定こども園」が始まったことにより、三元化していくのではとの危惧まである。
「教育が貧富の差によって分けられるということは、教育の貧困を物語るものである」(7)との城戸の懸念は、現在は一応解消されている。貧困世帯の救済を目指して始まった託児所は、戦後、社会福祉の増進に伴い、「児童福祉法」の制定により、保育所となり、昭和40年の「保育所保育指針」の成立を経て、質の高い保育を保障されるように整備されてきた。就学前1年間に限れば、対象児の96%が、幼稚園、保育所のどちらかに通っている。(8)数的には全ての幼児が、就学前の保育を受けられるようになっている現状は、歴史的に見れば大きな前進であり、評価されてしかるべきものである。だがその内容、質はといえば、依然として保育界全体が脆弱な基盤の上で営まれている。永い二元行政の歪みともいえる、公立、私立、幼稚園・保育所間の公費負担の格差。96%のうち57.2%が幼稚園へ通う者であり、その大部分を私立が担っているにもかかわらず、そこに投入される公費は、公立と比べてはるかに低い水準にある。また市場原理を教育・保育の世界へも導入しようとする動きは、低廉での運営を迫られる方向へと向かう。規制緩和により、社会福祉法人だけでなく、株式会社の保育界への参入を認めたことにより、一部かもしれないが、明らかに認可施設よりも劣悪な環境での保育が行われていたりもする。さらに幼・保を問わず、保育の長時間化の流れも日々加速している。かつて幼稚園4時間、保育所8時間の保育時間は遠い過去となり、幼稚園では全国で8割の園が「あずかり保育」を実施、保育所は13時間開所のところが増えてきている。制度が整っていないにも関わらず、施策だけを実行に移すものだから当然歪みが生じ、そのしわ寄せが幼児やその親、そして現場の保育者へとのしかかってきてしまう。
かような二元行政の矛盾や制度の不備が山積する保育界であるが、城戸は70年も前に人間が豊かに育つための就学前保育の必要性と、それゆえに国が確かな制度設計をし、一元的にそれを保障すべきとして、幼・保一元化を唱えているのである。城戸が会長を務めた「保問研」でも、就学前教育制度研究委員会が、幼・保の一元化を含む、「国民幼稚園要綱思案」を昭和16年に『保育問題研究』に公表している。
1.満4歳以上の幼児を常時保育する施設は全て之を国民幼稚園に統合し、新たに国民幼稚園令(仮称)を制定すること。
(説明)現行幼稚園では満3歳以上となっているが、幼児保育の一般的普及を図る為には満4歳として置いた方が実際的であり、場合により満3歳以上のものをも収容することを得ることにしておいてよいと思う。然し将来は満5歳以上は義務制とすることが望ましい。
この項によって幼稚園と託児所は一元化されるが、満4歳以下の乳幼児の保育に対しては別に保育所令(仮称)を制定しなければならない。(後略)(9)
就園時の年齢が現代とそぐわなかったり、就学前1年間の義務化の提言にも賛否はあろうが、保育の重要性と制度基盤の確立を唱えている点は理解されよう。
保育を中心とした再構成
「わたしが本書で特に問題としたのは、この家庭や社会を、子供の教育のために、いかに再構成すべきかということであった」(10)『幼児教育論』の「序」で城戸はこのように述べている。この「社会や家庭の再構成」とは何を意味するものであろうか。
フレーベルが、「幼稚園の創設者」「教育者」と紹介されるのが一般的であるのに対し、オーウェンは「保育所の創設者」と同時に、「社会改良者、空想的社会主義者」と紹介されることが多い。事実オーウェンは「労働者や働く子どもたちの労働環境、生活環境を改善」(11)しようと意図し、その一環として設立されたのが「幼児学校」だったのである。共に近代民主主義教育思想の元祖とも言える、ペスタロッチの影響を強く受けながら、城戸流の言い回しを借りるなら、フレーベルは「ヒューマニズム」へ、オーウェンは「ソシアリズム」の方角へ、ペスタロッチの思想を発展させていったことになる。
私見ではあるが、『幼児教育論』の書かれた時代(昭和10年代)の城戸は、フレーベル、オーウェン双方を評価しながらも、オーウェンによりいっそう親しんでいたと思われる。それは次の文からもうかがわれる。
「社会機構の改造が行われない限り子供の教育的環境を改善することは困難であるが、教育政策は社会政策と相俟って子供の生活環境を改造して行くことはできる。」(12)
子どもの教育環境を改善するには社会機構そのものが変わらねばならぬが、それが成されていない現実社会では、種々の政策の改善によって生活の向上は図れるということである。また『幼児教育論』ではないが、このようにも述べている。
「人間を教育する社会を改革する人間の実践に教育の意義を見いだすことのできぬ教育科学には真に教育科学としての自立性を認めることはできぬ」(13)
かような社会改革を目指す、社会的実践性が城戸の思想の特色であり、またその思想を実現せんがために、現実社会の政治的面にまで様々な働きかけをしていったのがこの時代であった。「社会・家庭の再構成」というのは、机上のものでなく、行動指針でもあったのである。
ではその働きかけはどのようなものであったかを具体的に見ていく。まず「家庭の再構成」であるが、これを解くには城戸の云う「両親再教育」という概念が鍵となる。
『幼児教育論』の中でもたびたび両親教育の必要性を訴えているのだが、その理由として「国民教育における家事教育の不徹底」と「近代化における家庭生活の破綻」を挙げている。ことに後者は、前近代のゲマインシャフト的な生産の場でもあった家庭が、近代化の中でその機能が変質していった点を指摘しているのである。そして教育的見地から、その過程で、従来の家庭にあった養育機能も低下していったとしている。
つまり家庭生活の破綻による家庭の教育機能の低下が現実において見られ、それが子どもの成長、発達に好ましくない環境であるから、どうにかしなければならない。だがこの場合、保育施設が両親の立場に取って代わるのは、無理であるし望ましくもない。ならば両親、ことに母親を教育することで、家庭の教育機能の低下を防げるのではないか。これが城戸の両親再教育を必要と考えた理由である。そしてこれを個別の両親を対象としてとらえるのではなく、組織的に取り組むものとし、「場」を各幼稚園、保育所(託児所)にあった「母の会」に求め、そこでの母親への指導者に保育者を求めたのである。
こうした発想は城戸の保育施設観とも密接に関わっている。城戸は家庭の延長、家庭教育の補助としてではない、より積極的に家庭に働きかけていくものとして、保育施設をとらえていた。それが「保母は子供を教育すると同時に子供を通じて母親の子供に対する教育に協力せねばならぬのである。母親に対する保母の教育的協力ということが家庭の教育を補うという意味でもあり、母親を教育するという意味にもなるのである。」(14)という、「両親再教育」概念につながっていったのである。
育児不安や子育ての孤立化が社会問題となっている現在、子育て支援、家庭支援の役目を期待される保育施設だが、時代を超えて、城戸の指摘していることには、傾聴に価するものがある。
もう一方の「社会の再構成」であるが『幼児教育論』に具体的な社会機構の改革案が述べられているわけではないので詳述はさける。城戸の保育思想が、社会改革を強く思考していることはすでに述べた。それが現実の行動として、三次に渡って内閣を組織した近衛文麿の私的政策研究団体であった「昭和研究会」に参加し、そのメンバーが中心となって、昭和14年から15年にかけて展開された「新体制運動」に積極的に取り組んでいた事実を伝えるのみとする。「新体制運動」は能動的な国民運動としての体裁をとっており、政界、国民生活の一新を標榜していた。そこに現実改革を期待した知識人も多数いたのだが、城戸もその1人だったのである。
ちなみに「新体制運動」が最終的には「大政翼賛会」へと連なり、城戸もそのメンバーになったことがあることはすでに述べたが、実際には何もすることなしに、辞職させられていることを追記しておく。
まとめ
教育・保育の分野は過去を土台として、研究・実践を積み重ねていく作業が難しい面がある。何故なら専門職であるはずの保育者は、「背後にある学問が曖昧で、学問をいくら学んでも専門家としての力量にはさほど影響しない」(15)種類の職業だからである。保育者として必要な知識はと問われれば、乱暴なようだが、全てだと言わざるを得ない。我々は人間が構成する社会の一員であり、子どももまた然りである。その社会から影響を受けながら育ち合うのが保育の営みであるのならば、その社会事象全般を知っておかねばならないと、少なくとも原理的には言えるであろう。もちろん現実には不可能なわけだから、保育者養成にあたっても、特に必要と思われる保育方法論、保育課程論、保育内容総論などを講義するわけである。だがそれとて養成校、教授者によって内容はバラバラであり、統一したミニマムエッセンシャルが決まっているわけではない。
養成課程においてさえそうであるから、現実の実践の場、研究の場においては尚更である。個々にはすばらしい保育実践を行っている保育施設、有意義な研究をしている研究者がいるにも関わらず、それが広がり、批判や研究対象とならない現状は、何とももったいない。
今回とり上げた城戸幡太郎の昭和戦前期の保育理論やその実践にしても、現在の保育界に役立つ要素が山のようにつまっている。しかし「これまで、日本保育史研究において、戦時下の理論動向についての研究は避けて通れないのにも関わらず本格的に論議されていない現状にある。」と云われるように、広く知られることなく、現在に至っている。(16)
こうした状況が少しでも改善されることを願って本稿のまとめとする。
〈注〉
- (1) 城戸幡太郎『幼児教育論』賢文館、1939年、32頁。旧字、旧かなは適宜現代語に直してある。以下の本書からの引用も同じである。
- (2) 佐藤広美「東亜協同体論と教育科学−城戸幡太郎の『教育科学』についての一考察」東京都立大学『人文学報』第206号、1985年、56頁。
- (3) ある保育者養成校で、100名あまりの学生へ質問したところ、倉橋は全員が答えられたが、城戸は5名しか答えられなかった筆者の経験による。
- (4) 倉橋の「心情主義」が戦争協力に突き進んでいったことを、『日本の幼児保育−昭和保育思想史−』上巻で、宍戸健夫が指摘している。(166頁〜174頁)
- (5) 城戸幡太郎『幼児教育』福村出版、1968年
- (6) 城戸前掲書、9頁。
- (7) 城戸前掲書、2頁。
- (8) 幼・保への就園率は『全日本幼稚園連合会要覧2008』(250頁)参照。
- (9) 就学前教育制度検討委員会「国民幼稚園(仮称)に関する建議案に就いて」『保育問題研究』、1941年3月号、2頁。
- (10) 城戸前掲書、「序」3頁。
- (11) 山住正巳他編『教育学事典』労働旬報社、1988年、43頁。
- (12) 城戸前掲書、75頁。
- (13) 城戸幡太郎「社会的教育学」岩波講座『教育科学』、21頁。
- (14) 城戸前掲書、154頁。
- (15) 加藤繁美『子どもへの責任』ひとなる書房、2006年、192頁。
- (16) 「戦時下日本の保育理論」『日本保育学会第59回大会発表論文集』、2006年、58頁。