内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第39号
特集:習得・活用・探究型学力の育成と評価の理論

「教える」ことについて
(財)日本教材文化研究財団理事長
東京学芸大学名誉教授

杉山 吉茂

「教える」ということを、人々はどう考えているのか。今、それが気になってならない。自分が考えていること、話していることを分かっていただけないように感ずることがあり、そのことから「教える」ことについて、何か根本的なところから違っているように思われることがあるからである。抽象的に話していても分かってもらえないので、具体的な例で話してみたい。

先日、小学校3年生の「小数」の導入の授業を見せていただいた。

先生は「教科書の○○ページを開きなさい。今日から、小数の勉強をします。□□君、読んでください」と始められた。当てられた子どもは教科書を読む。

「ジュースのかさを1デシリットルのカップではかりました。2デシリットルと、はしたが出ました。ジュースは全部で何デシリットルありますか。はしたはどのように表したらよいでしょうか」

教科書の次のページには、はしたを1デシリットル升に入れた図があり、その図に1デシリットルを十等分した目盛りがつけられている。

先生は、教科書を見させながら「1デシリットルの1/10を『0.1dl』と書き『れい点一デシリットル』と読みます。ジュースのはしたのかさは、0.1dlの3つ分で、0.3dlです」と教科書通りに授業は進められた。ジュースのかさを測ることから、小数の意味を丁寧に説明され、適当な問題を解決することを通して小数の理解を図ろうとされている。一般によい授業と言われるものなのであろう。

しかし、僕はこう感じてしまう。

先生は、いきなり「今日から小数の勉強をします」と始められたが、それは「決められたことを教える」ことが算数の授業と思われているからであろう。「決められたことを教える」という授業観は、算数にかぎらず、どの教科にもある姿勢なのかもしれないが、何を教えるにしろ、子どもには「なぜ学習するのか」が分かるようにして学ばせたいと思う。

教科書を読んでいくと「はしたを表すことを考えよう」という課題が出されているが、この問いは、何を考えたいかの示唆になっている。そして、その課題からすぐ小数の意味に進められている。

しかし、その課題から小数へ必ずしも進むわけではない。はしたを表す方法は、小数だけではない。1リットルに満たない量を表すのにデシリットルの学習をしてきたし、子どもは1メートルに満たない量を表すものとして、センチメートル、ミリメートルを知っている。これまで「はしたの量」を表すには、新しい単位を作ればよかったからである。

こう考えてみると「はしたを表すことを考えよう」という課題に対応する当然の反応は「もっと小さな単位名があればいい」というものではないだろうか。長さの単位から連想して、センチリットル、ミリリットルという声が出てもいい。そういうことを考えているうちに、いつまでも単位の名前を考えていくのは大変だからという声が出てくるかもしれない。また、身の回りを見てみると、小さい量の単位名を使わないですませていることもある。

たとえば、百メートル走のタイムは9秒3などと言っている。1秒より小さい単位名を使わずに、1秒より小さい時間を表している。それならば、かさも「2リットル3」と言うことにしてもよいはずである。

これから、小数につながる考え方が出てくる。単位名があるときには「9秒3」「2デシリットル3」と言えばよいが、単位をなくして「9 3」「2 3」と言ったのでは区別がつかないので、小数点で区切って言うことにしようと考えたものと考えればよい。

これは、十進位取り記数法の原理を小さい数にも適用することによって、新しい単位を作らなくても小さい量を表すことができることを示唆しているのであるが、こうして十進位取り記数法で数を表すことにすると、どんな小さな数でも表せるようになる。

小数を知ると、どんな小さな量でも表すことができるというよさがあると威張っているが、では、本当にそうしているかというと、そうでもない。今、分子レベルの小さな世界を探究し、人間に役立つものを作ることができるようになっているが、そのとき小数を使っているかというとそうではなく、ナノという単位を使って話をしている。

そのことは大きな量についても同じである。十進位取り記数法を使うと、どんな大きな数でも表すことができると言われるが、記憶容量をいうとき、キロバイトを使っていた時代から、メガバイトの時代を経、今、ギガ、テラという単位名を使う時代になっている。このように、大きな数についても、小さな数についても、新しい単位名を用いている。十進位取り記数法が「どんな大きな数も、どんな小さな数でも表せる」と威張っていても、現実には、単位名を使って表している。

そこには、それなりの知恵がある。そんなことに目を向けさせたいと僕は思う。小数など難しいものではないから、それほど力を入れる必要はない。それよりも、今話したようなことに目を向けさせたいと思う。

すると、僕は「教える」ことをどう考えていると言えばよいだろうか。数学的な知識を伝えるだけでなく、人間の知恵を伝えたいのだと言えばよいのだろうか。そう言うと、「教える」中身が知識と知恵の違いだけで、「教える」ということは同じだと言われるかもしれない。

でも、そこに違いがあるように思う。今、知識を言葉で伝え、その言葉を覚えることを期待しているが、知恵は伝えても、そのまま覚えさせるようなことはしない。知恵は感じさせればよい。

僕が「教える」ことの意味にこだわっていることを、この例がすべてを語っているわけではないが、言葉で伝え、言葉を覚えさせる「教える」と、人間の知恵を感じさせる「教える」とは違うと言いたい。少なくとも後者は、テストの題材にすることはない。

うまく言えないが、今の「教える」が、言葉で教え、言葉を覚えることを期待しているのに対して、なにか大切なことを感じさせることをもっと大切にしたいと思う。

そうは言っても、まだ言い尽くせないものがある。「教える」とは何をすることかの問いはまだ続く。

ここに書いてきたことのうち、どれくらいが3年生の子どもに理解できるか分からないから、ここに書かれていることをすべて教室で取り上げようとは言わない。けれども、今話してきたことを根底にもっていれば、先程の教室のようなことはないはずだと思うのである。