内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第39号
特集:習得・活用・探究型学力の育成と評価の理論

国語科で育てる学力と「言語活動の充実」という課題
三浦 修一 横浜国立大学教育人間科学部附属
教育実践総合センター研究員
1.「言語活動」とは学習活動そのもの
2.国語科教育の課題
3.いくつかの補い

1.「言語活動」とは学習活動そのもの

ある小学校での6年生の算数の授業で、次のような子どもたちの学習に出会いました。

問題 1/3リットルと1/2リットルの水を一つの入れ物に入れました。合わせて何リットルになるでしょう。

最初に「分母が違うから足せないと思う。」というAさんの発言がありました。Bさんは、「分母と分母、分子と分子も足せばいいんじゃないの。だから、この答えは2/5だよ。」と発言しました。このBさんの意見に対して、Cさんは、「もしBさんの答えが正しいとしたら、おかしいことになるんだよ。図で説明するね。1/3は、これだけあるってことでしょ。1/2はこうでしょ。それでね、2/5は、これだけだよね。足し算するのに、足す前より減っちゃうのはおかしいと思うんだけど、みんな、どうですか。」という発言をしました。Dさんは、「もし、Bさんの意見でいいのなら、5年生でやった分数の足し算と違うことになるんだよね。5年のときにやったのは、1/3足す1/3は2/3って習ったでしょ。Bさんの方法だと、この答えは2/6っていうことになるんだよね。だから、やっぱりBさんのやり方は違うと思うな。」と発言しました。

それでは、どうしたらこの「足し算」ができるかを考える学習が改めて始まりました。Eさんが、「分母をそろえるのかなあ」と言いましたが、それが必要なのか、あるいは、正しいのか、だれも決められません。

この授業でのU先生の発言で最も子どもたちを刺激したのは、この場面でのものです。

「みんなに任せたんじゃだめなんだ。じゃあ、先生が教えようか。塾なんかにいけばお金かかるけど、先生はただだよ。どうする」。子どもたちはすかさず答えました。「いい。自分たちで考える。」

このあと、この学級の子どもたちは、分母をそろえる意味を、図を使って考え始めます。それを式にするためには、公倍数という考え方が必要だと見出します。

実は、多くの教科書では、まず「通分」の学習をしてから、上の「問題」に取り組みますが、U先生の教室では、その順序が逆になっています。こうすることにより、分母をそろえる必要性が意識されるようになります。また、通分することの意味を、説明できるようになります。

どの教科の学習においても、「言語」が用いられます。ことさら言うまでもないことのようですが、これまでの学習指導において、このことが十分意識されて取り組まれてこなかったという問題点が新学習指導要領で改めて指摘されたのだと考えることができます。

この指摘の出発点の一つは、PISA調査における「読解リテラシー」の低下にあります。特に2000年調査と比べて2003年調査では大きく低下して、その傾向は2006年調査でも同様でした。今回の学習指導要領改訂の前提となった、社会状況の変化や、子どもたちの課題については、中央教育審議会の議論と答申(「中央教育審議会答申《平成20年1月17日。以下「答申」と略記》の中に端的に見ることができます。その「答申」では、これからの時代を「知識基盤社会」であるとして、その社会で生きていくうえで必要とされる能力の総体を「生きる力」と表現しました。そう規定した基盤となっているのが、OECDが行ったPISA調査の原理である「キーコンピテンシー」であり、さらに「リテラシー」という能力と学力についての考え方です。そこから我が国の教育の現状と照らしていくつかの課題が明らかになりました。

この「答申」に先立って、教育基本法と学校教育法が改正されました。特に学校教育法第30条第2項では、これからの学校で育てる学力を次のように示しています。

生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、@基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、Aこれらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、B主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。(○数字及び下線は筆者)

特に、「Aこれらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力」をいかにはぐくむかが、今大きな課題であると考えられています。そして、その具体的な手立てとしてまず挙げられるのが、「言語活動」です。なぜなら、「思考し、判断し、表現する」ことは、言語を通して行われるからです。

冒頭にあげた小学校6年生の算数の授業で、U先生は子どもたちの「なぜ」を言語として他の学習者に伝えさせようとしています。子どもたちもその意図を受けて、「分かったことの中身・分からなかったことの中身」を、言語化しています。そのやり取りを通して学習が進んでいます。

「言語活動の充実」という課題は、このように考えていくと、一人国語科だけの問題ではなく、すべての学習活動をどのように行うのかという問題に行き当たります。「言語活動の充実」について考えるということは、すべての教科等の学習指導の在り方を考えるということでもあるのです。

2.国語科教育の課題

それでは、教科「国語」にはどのような役割や機能が求められるのでしょう。

(1)中央教育審議会答申から求められること

言語については、「知的活動(論理や思考)だけではなく、コミュニケーションや感性・情緒の基盤でもある」(「答申」7(1)言語活動の充実)とする捉え方に基づいて、「今回の学習指導要領の改訂において各教科等を貫く重要な改善の視点」(同「答申」)として言語活動の充実が位置づけられました。

さらに、「国語科において、これらの言語の果たす役割に応じ、的確に理解し、論理的に表現する能力、互いの立場や考えを尊重して伝え合う能力を育成することや我が国の言語文化に触れて感性や情緒をはぐくむことを重視する。」(同「答申」)と示されました。言語能力を育成する学習の中心は国語科にあるということを踏まえて、国語科における「言語活動の充実」について考える必要があります。その際に留意しなければならないことは、国語科における言語活動を行うことによりどのような学力が育成されるべきなのかという視点です。

「答申」では、「各教科等においては、このような国語科で培った能力を基本に、知的活動の基盤という言語の役割の観点」から、さらには、「コミュニケーションや感性・情緒の基盤という言語の役割」を踏まえて、「それぞれの教科等の知識・技能を活用する学習活動を充実することが重要」であるとして、各教科等における言語活動の例が示され、その内容の主なものは各教科等の学習指導要領にも示されました。

そこで国語科として、教科として育てる「学力」について、改めてその本質について考えてみる必要があります。「答申」にあるとおり、各教科等で行われる「言語活動」が、「国語科で培った能力」に基づくものであることが求められているからです。

(2)国語科で育てる「学力」

言語活動については、学習指導要領「第1章総則 第4指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項 2(1)」にも注目する必要があります。そこには、


「知識・技能を修得するのも、これらを活用し課題を解決するために思考し、判断し、表現するのもすべて言語によって行われるものであり、これらの学習活動の基盤となるのは、言語に関する能力である。(中略)したがって、今回の改訂においては、言語に関する能力の育成を重視し、各教科等において言語活動を充実することとしている。」(中学校学習指導要領解説 総則編 第3章第5節1)

とあって、このことからも、国語科が担う「言語に関する能力」について、しっかりと考えていく必要があると言えます。

それでは、国語科ではぐくむ「言語に関する能力」とは、どのうような能力をさしているのかといえば、国語科の「目標」そのものであると言えます。言語に関する能力については、それこそ数え切れないほどの「観」があります。一人一人の国語科教師のみならず、ほとんど全ての人が(教育に関わっている・いないに拘わらず)、言葉を使って生活している中で「それぞれの言語観」をもち、「能力観」を持っています(筈です)。それをある範囲でまとめたものが、学習指導要領の「目標」です。私たち教師は、それを拠り所に教育を行うことが求められます。学校の機能がそれを求めているからです。

その目標は次の通りです。(下線は筆者)

〈小学校〉
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。
〈中学校〉
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし,国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。
〈高等学校〉
国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を伸ばし,心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊重してその向上を図る態度を育てる。

その骨格は@表現する能力、A理解する能力、B伝え合う能力、C思考力、D想像力、E言語感覚、と見ることができます。このほかに、今回の学習指導要領ではF「伝統的な言語文化」についての理解が加えられていますが、国語科の授業は、この@〜Fを児童生徒に確かに身に付けさせる学習が行われる時間にならなければなりません。その学習を行うことにより、「国語に対する関心や認識、尊重する態度」が育つのです。

もちろん、これらの言語に関する能力は、それぞれが截然と区別できるものではありません。「理解しながら、表現する能力が身に付く」こともありますし、その逆もあります。「思考力」は、書いたり話したりする場面でのみ発揮されるのでは、当然ありません。けれども、大事なことは、「この教材では、〜という言語に関する能力を育てる学習を行う」という意識的な取り組みではないでしょうか。

これまでの国語科の学習は、主として「教材を学ぶ」ために行われてきました。「ごんぎつね」や「大造じいさんとガン」、「走れメロス」や「故郷」、「万葉集」や「論語」の解釈こそが国語科の学習の中核であると考えられてきたと言ったら言い過ぎでしょうか。私は、ここに国語科教育の最大の問題があったのだと考えています。本当に育てなければならない能力、それは上に示しましたが、そういう国語の力を育てる授業をしてこなかったのだと言えないでしょうか。「教材を学んだ経験」をさせるのではなく、「物語や小説を読んで、内容についての『自分の考え』をもって、その考えを人と『交流』したり、内容そのものを『評価』したりする経験」をさせなければなりません。そうすることによって、「思考し、判断し、表現する力」が身につきます。そういうゴールイメージを明確にもった学習が行われることが、求められています。

3.いくつかの補い

これからの学校教育を考えるために確かめておきたいことです。

(1)用語を正しく使うこと

最近、「活用力」と題する書物を目にします。「人間力」(2002年初出)以降、「〜力」という表現が多用されています。しかし、学習指導要領では「活用」は学習の場面で用いられる言葉で、それ自体が目指される能力であるとは示されていません。もし「活用力」を認めるのであれば、それと対になって用いられる「習得」にも「力」を付けて「習得力」とするのでしょうか。

他にも、例えば今回の学習指導要領国語では「主題」という語は使われていません。これまで、特に文学作品を学習する場合、それがある意味で金科玉条ように扱われてきた言葉です。それが使われなくなった意味を考えてみたいものです。

私たちは、公教育に携わる立場として(私学であっても公的性格を有しています)、用語を正しく理解して、正確に用いることを通して、本質に迫ることができます。耳触りのよい言葉に惹かれて思わず誤用してしまわないよう、十分に気を付けたいものです。

(2)「原体験」で教育を語らないこと

教育についての多くの議論が、「自分が受けてきた教育」からされています。そして、「今の教育についての問題点」が語られます。果たしてそれでよいのでしょうか。  高木展郎(注1)は、そのような言説を、「原体験に基づく教育論議」であると指摘してます。

教育は未来を形作る営みです。過去に受けてきた教育の素晴らしさを否定するものではありません。しかし、これからの社会を生きていく子どもたちのための教育がどうあるべきなのかということを考えるために、過去から学ぶことは必要ですが、「原体験」からは離陸しなければなりません。そういう議論をしっかりと積み重ねていきたいと考えています。

(3)「授業」について考える

「授業」とは何か、この当たり前すぎるかもしれないことについて、改めて考える必要を感じています。

教師が「問い」を発します。児童生徒は、それに「答え」ます。しかし、その「答え」は、教師がもっている「正答」にいかに応じるかという規準からしか評価されないことが多く、そのやりとりこそが「授業」であると考えられてこなかったでしょうか。それでよいのでしょうか?

秋田喜代美は、


授業は、テーマをめぐって展開されるコミュニケーションを通して、参加者間で認識が共有される過程である。(注2

としています。

教師が「発問」して、児童生徒が「応答」して、その内容について教師がその妥当性を「評価」するというやりとりは、果たして「コミュニケーション」と言えるでしょうか?

こういう現状を改めて、児童生徒が本当に学習する授業とはどのようなものなのか、考えていきましょう。

いくつもの方法があると言えますが、まず手を付けたいことは、


@児童生徒に「身に付けさせる学力」から授業を始めること
A児童生徒が「何を学んだか」を自分の言葉で言えるようになること
B黒板・チョーク・教卓といった装置から離れて授業を考えること

などです。

今日、この教室で学んだことがどんな意味を持つのかを子どもたちが自覚できるようになることです。そのためには、毎時間の授 業をどうするかを考えることも勿論ですが、私たち教師が、子どもたちにどのような学力を育てるのか、そのベースとしての明確なカリキュラムを意識して授業を行って居るのか、ということが問われています。日々の授業をどのようにするのかということこそが、問われているのだと言えます。


注1 木展郎、『ことばの学びと評価』、2003、三省堂、p171
注2 秋田喜代美・佐藤学編著、『新しい時代の教職入門』、2006、有斐閣、p26