はじめに
1.子どもの捉え方
2.信じてかかわり、待つこと
3.困難との遭遇は育ちのチャンス
4.かにの話
5.教えないことが教育
6.ズレの大切さ
7.安全すぎることは危険
8.五感を通して遊びながら学ぶ
9.本物を体験する
10.褒めない、叱らない
おわりに
はじめに
子どもは生まれて、最初に多くの時間を共にするのは母親を中心とした家族ということが言えるでしょう。従って母親の子どもに及ぼす影響は非常に大きいということがいえるのではないかと思います。言い方を変えると、人の一生の中で初めて出会う教師は母親であるということもできるかもしれません。そして、「三つ子の魂百まで」という諺があるように幼児期の過ごし方は人のその後の人生に大きな影響を与えるということがいえるでしょう。このことは、幼児教育の歴史の中で、コメニウス(Comenius, Johann Amos 1592-1670)、フレーベル(Fröbel, Friedrich Wilhelm 1782-1852)といった幼児教育学の先達も母親の教育的な存在に着目していることからも理解できるところです。
日本の幼児教育の考え方は、幼稚園教育によく表されています。即ち、幼稚園での保育は4時間を原則としています。幼稚園では、家庭教育では補うことのできないこと、つまり、集団での生活を経験するのです。そのために家庭から離れて幼稚園で集団生活を経験し、また家庭での生活に帰っていくのです。そのことが、幼児期の子どもの生活にふさわしいという考えなのです。保育所は、それが不可能な、保育に欠ける状況にある子どもに対して、親に代わって保育士が保育をするということなのです。こう考えてくると、幼児期の教育は、家庭と園(幼稚園と保育所の両方を含む)が協力して行うことということができると思います。特に家庭教育、とりわけ母親のかかわりが重要になってくるといえるでしょう。それでは、一体どのようなことに留意して子どもとかかわることが望ましいのでしょうか。ここではそのいくつかについて私論を述べてみたいと思います。
1.子どもの捉え方
親が子どものことを言うのに、子どもを持つという言い方や、子どもを授かるという言い方などがあります。そして現代では、子どもを持つという言い方がかなり一般的になっているような気がします。しかし、子どもは持ち物ではないのです。また、子どもが欲しくても生まれない人もいますし、男の子が欲しいと思っても、女の子が生まれるなど思うようには行きません。そう考えると、子どもを授かるという考え方のほうが妥当なのではないでしょうか。人間の意思を超えたところで決定されているから、天から、あるいは神から授かるという考え方が理解できます。
そのことは、子どもは親が好きなように育ててよいということではないということにつながります。母親が産んだ子どもだからといって、母親の所有物ではないのです。両親がいて、母親を通して子どもは生まれてきますが、一人の人格を持った人として生まれてくるわけですから、子どもを人として尊重し、成人するまでその育ちを大切に支える責任者として親が存在すると考えることが相応しいのではないかと思います。
2.信じてかかわり、待つこと
子どもを信じること、そしてかかわり、あせらずに待つことが、子どもがより善く成長することに繋がるといえるでしょう。どのようなことが起きても基本的に「あなたのことを信じていますよ。」というメッセージを子どもに送り続け、かかわることが重要であると思います。「いたずらをしたからもうあなたのことは嫌いです。」「言うことを聞かないから嫌いです。」ということでいきますと、子どもと同じ立場になってしまっているのです。あなたのことを信頼しているから好きにやってみなさい。責任は私が取りますからという姿勢は子どもに安定感と自尊心を持たせることになるでしょう。そして、待つことです。子どもは必ず変わっていくと信じてかかわることです。心理学でピグマリオン効果ということをいいますが、これはローゼンタールという学者が学校に赴き、ランダムに選んだ子どもに対して、今後の1年間でこれらの子どもの成績が伸びると担任の先生に伝えたところ、本当にその子たちの成績が伸びたということによるものです。つまり、一人ひとりの子どもの善さを信じてかかわることによって子どもは善く変化するということを言っているのです。子どもを信じて、じっくり子どもが考えて、育つ時間を保障して待つことが重要です。親が子どもを信じないでだれが信じてくれるでしょう。
3.困難との遭遇は育ちのチャンス
相田みつをという人が、教育について語っていますが、教育はいつも失敗しないように失敗しないようにと考えて行われているが、人生で成功することよりも失敗することのほうがよほど多いのだから、負けたときにどのようにそれを克服するのかを教えることが重要で、それこそが教育であるといったことを言っています。まったくそのとおりだと思います。保育においては、いざこざや、困難な状況に遭遇することを育ちのチャンスとして、大切に考えています。例えば幼稚園の庭に水溜りができて遊べないという困った状況の中で保育者がどう考えるか、子どもとのどのようなかかわりをすることが子どもの育ちにとって望ましいのかと言うことを考えます。子どもが幼稚園に来る前に保育者で埋めてしまえば、子どもは何の疑問も持たずに普通に遊べます。一見素晴らしい保育者のようにも考えられますが、逆に「こまったねー。どうしよう。」と子どもに投げかけることによって、子どもが考えるのです。そして「みんなで工事しよう。」などということになり、布やスポンジで水を吸い取ったり、砂で埋めたりとするのです。そこにはみんなで困難を克服するたくましさが感じられ、様々な育ちが認められるのです。明治の中葉、日本にやってきた女性宣教師ハウ(Howe,Annie Lyon 1852-1943)という人は、日本の親子について、子どもが転ぶとすぐに助けて、ちやほやする、過保護であるといったことを指摘しています。そして、自分で転んだのだから、自分の力で立ち上がることが重要であるといっています。確かに、自分の不注意で転んだ時に次にどうしたら転ばないですむのかということを子ども自身が考えるところに育ちがあるといえるでしょう。そして、自分の力で立ち上がったときにそれを喜ぶ親の暖かいまなざしが必要なのではないかと思います。
4.かにの話
親がにが自分で横に這っていながら、子どもに真っ直ぐに這いなさいというのは無理な話であるという逸話を聞いたことがある方も多いかと思いますが、子どもは親のすることを実によく見ているのです。電話の受け答えや、癖などちょっとしたことが親によく似ていると思うことがよくあると思いますが、それも親のすることを子どもがよく見て学んでいるということなのです。親が子どもに言ったようには育たず、子どもの前で見せている姿のように育つといえるでしょう。子どもにとったら生きる見本なのです。その意味では意識して生活する必要があります。
箸の持ち方、挨拶の仕方、鼻のかみ方などの立居振舞から、ものの考え方まで全て子どもは観察し自分のなかに取り入れているのです。いわば親の姿を毎日の生活の中で呼吸しているのです。幼稚園などではよくお母さんごっこなどと称して家庭の再現をして模倣遊びをしますが、これも実によく観察しているということがわかる場面です。子どものモデルとしての自覚を持った生活を心がけたいものです。
5.教えないことが教育
子どもが自分の頭で考え、判断し、実行していける人になるには、どのようにかかわることが重要なのでしょうか。それには先ず、大人は生活の中で発生する諸問題に対して、答を教えないことです。どういうことかといいますと、教育とはそもそも何かを教えることではないのです。教育は教えて育てるという字を書きますので、教えてもらうのが教育であるかの誤解を生みますが、実は教育とは教えないことなのです。言い換えれば、子どもが答を見つけることを励まし、助けることをするのが教育ということなのです。一見同じように感じられるかもしれませんが実は全然違います。学ぶ主体は子ども自身なのです。哲学者ソクラテスは助産術という考え方をしています。つまり、答を生み出すのは、答を産む人つまり被教育者であって、その答を産むのを傍らで助ける助産師の役をするのが教育者であるというのです。いくら可愛い子どもでも親が学んであげるわけにはいきません。子どもは自分で学ばなくてはならないのです。また、その学び方は、子どもが自分の力でわかったと思えることが大変重要です。例えば1匹のクワガタを子どもがとってきたとしましょう。そのクワガタはミヤマクワガタだったとします。子どもが「この虫なんていうの?」と聞いたとします。それをどう応えるかが問題となるのです。例えば「それはね、ミヤマクワガタだよ」と応えるとします。間違いではありません。子どもは「ふーん、そうなんだ。お母さんて物知り。」と思うかもしれません。しかし、ここで重要なことは、子どもに育ってほしいという願いを親が持つということです。親の自己満足や知識のひけらかしのために応えるのではないのです。とすれば、「なんていう虫だろうね。こまったねー。」という応えのほうが適しているのではないでしょうか。すると子どもは「そうだ本で調べようよ。」というかもしれない。そして、一緒に虫の名前を調べることによって、子どもは解らないことがあったら本で調べるということに気付き、さらに、その本の中から、ミヤマクワガタを特定することができたとします。すると「あーそうか!わかったぞ!これはミヤマクワガタというんだ。」と子ども自身で答を見つけます。「そうかー、ミヤマクワガタっていうんだね。よく探せたね。」と子どもの発見に大人が共感し、喜ぶ。「あーそうか、わかったぞ!」という体験こそが、最近よく言われているアハ体験なのです。親が答を教えることと、子どもが自分で答を見つけることの間には大きな差が生じてきます。親に答を教えてもらう子どもは自分で学んでいるのではありません。それに対して図鑑で調べた子は自分の手で答を掴み取っているのです。そして、親が共感し、喜んでてくれている。そのことは、自分の信頼している親が認めてくれていると感じ、その子どもの中に自尊の念が生じ、自信を生むのです。このようなかかわり方は子どもとの生活の全てに言えることなのです。
きょうだいでおやつを食べるときに何をどのように子どもに用意するでしょうか。きょうだいげんかしないように銘々に分けてあげることも多いのではないでしょうか。でもそれは子どもを育てません。おやつをどうしたらけんかしないで食べることができるか子どもたちに考えてもらうのです。はじめはうまくいかず、けんかになることもあるでしょうが、毎日の積み重ねの中で公平な分け方について次第に気付き、子どもたち自身で学んでいくのです。
モンテッソーリ(Montessori、Maria 1870-1952)というイタリアの幼児教育学者は、大人は「子どもに仕えるのではなく子どもの生命に仕えるのです。」といっています。どういうことかといいますと、子どもに何でもやってあげてしまうことは子どもの体に使えることで奴隷のすることで、それは正しくない。子どもの命に仕えるとは、子どもがその時期に取り組まなければならない課題に対して自分ですることを励ますのだといっているのです。子ども自らにさせなさいというのです。
6.ズレの大切さ
人は自分が知っていることと少し違うことに興味を持ちます。たとえばブランコで座って漕げるようになったとします。できたときは何回も繰り返し漕ぐことを楽しみます。しかし、だんだん飽きてきます。隣を見ると立ち漕ぎをしている子がいます。すると「あれぐらいだったら自分にもできそうだ」と思い、挑戦してみます。はじめは少し怖いのですがだんだんできるようになります。この時の少し難しいことはその子にとって魅力的なことだったのです。絵本でもそうです。「ぐりとぐら」を読んでもらっている子どもは繰り返し読んでもらうことを楽しみますが、やがて飽きてきます。そのときに「ぐりとぐらのおきゃくさま」を読んでもらうとまた興味を持ってみています。これも、「ぐりとぐら」という既知のものから少しズレた新奇情報が入ってきたために興味がわいたのです。子どもをよく観察して、今目の前の子は何に興味をもっているのかを見極め、少し困難さを伴う環境を用意すると子どもは常に興味を持ち続けることになります。それは子どもの知的好奇心を刺激することになるのです。
7.安全すぎることは危険
親が常に子どもの安全に気をつけることは、生命を守るという意味で重要です。しかし、行き過ぎるとそれは危険につながります。たとえば、ある幼稚園で、鉄のポールがむき出しになっていたところ、それは子どもにとって危険であるということで、柔らかいスポンジのクッションが巻かれました。そして、怪我はありませんでした。ある意味安全管理上当然のことなのですが、大人が常に子どもの安全に気をつけているということは不可能です。とすれば、自分の身は自分で守るという態度を幼児期から持つことが重要です。人間は命を守るべく危険を回避する力を持っているのですが、注意しなくてもよい環境にありすぎると身を守る能力は退化します。そのことを考えると大きな怪我をしないようなほどほどの冒険は必要ではないでしょうか。
8.五感を通して遊びながら学ぶ
幼児期の子どもはまだまだ理屈で学ぶことはできにくい時期です。五感を通して体全体を使って学びます。また五感を使った遊びを通して学ぶということもできます。たとえば子どもは砂遊びを好みます。観察してみると、手で砂をすくって容器に入れています。この行為を通して子どもは砂のざらざらした感触を知り、さまざまな形の容器に砂を入れることによって砂は姿を変えてくれることも学びます。また、水を混ぜることによって硬くなること、色が黒っぽくなることなどを学びます。手で触り、目で見て、耳で音を聞き感じているのです。学んでいるのです。このような繰り返しの遊びを通して砂の性質をさまざまな角度から学んでいるということが言えるでしょう。このような濃密な体験、かかわりを通して、子どもはさまざまなことを認識していきます。
本を読み聞かせるということも親はよくすると思いますが、これも興味ある物語を例えばお父さんが、お父さんの声を通して読んでくれるという特別な体験なのです。そして、膝に乗せてもらっていると、耳で聞くと同時に、体の振動を通じても声を感じながら本を読んでもらうことになり、体全体を通して、親を通して物語を感じることができるのです。この体験は子どもにとってかけがえの無い豊かな体験となることでしょう。
子どもの周りに体験を通して学べるようなさまざまな魅力的な環境を用意することが大人の役割ということが言えるでしょう。
9.本物を体験する
今述べてきたように、子どもは身近な環境に自らかかわりながらさまざまなことを学んでいきます。このことを考えると、子どもには豊かな環境を用意したいものです。なるべくよいもの、本物を経験してもらいたいものです。その意味では、美術館に足を運んで芸術作品を見るといったことなども重要であると思います。フランスなどでは幼稚園でも子どもを美術館に連れて行きます。そこで芸術と向き合うのです。また、クラッシックのコンサートに子どもと行くなど洗練された本物に出会うことがとても大切なことであると思います。その経験が豊かな感性をはぐくむことに繋がると思います。また、豊かな自然の中に身をおくことも子どもにとっては大変魅力的なことです。自然の中で動植物に手で触れ、足で感じ、目で見て、鳥の声や小川のせせらぎを聞く。また鼻で花などの香りをかぐ。野いちごなどを採って味わう。それらのことはやはり子どもの豊かな感性を育むといえるでしょう。このように、子どもに対して本物、できるだけよいものと出会うようにすることは大変重要なことです。まだ子どもだからではなく、子どもだからこそなのです。その意味で、子どもだましと言う言葉は使いたくないものです。
10.褒めない、叱らない
子どもとのかかわりで、よく「3つ叱って7つ褒め」ということを言います。叱ってばかりいては子どもは育たない。褒めることを多くして、少し叱るというバランスが大切なのだということでしょうか。また、このごろの親は子どもを叱れなくなった。とも言います。また、褒めて伸ばすとも言います。叱ることと褒めることをうまく操作しながら子どもを育てることが賢い子育てなのだとでも言っているようです。しかし、人は褒められないと何もしないのでしょうか。叱られないと伸びないのでしょうか。人は怠け者なのでしょうか。そうではありません、好奇心に満ちた能動的な存在なのです。だとすれば褒めたり、叱ったりしなくても育つはずです。褒める、叱るということは飴と鞭の考え方なのです。これでいきますと、褒められるからする。叱られるからしない。ということになり、価値基準が本人の外にあるのです。子どもは評価されるために生きているわけではありません。これからはそうでない考え方で子どもとかかわることが望まれると思っています。それは、子どものしたことに対して、喜ぶ、悲しむといった考え方です。例えば子どもが何か好ましいことをしたときに、「お母さんは、自分がしたことに対してまるで自分のことのように喜んでくれた。」ということなのです。それは、子どもに自尊感情を生じさせるのです。またそれは自信に繋がります。そしてその自信が次の行動に繋がっていくのです。子どもが主体なのです。また、好ましくないことをしてしまったときに、自分がしたことに対して、「お母さんが自分のことのように悲しんだ、そして励ましてくれた。」そんなときにこれから自分はどうしたらよいのかについては自分で考え、決めるのです。それが、子どもを一人の人格をもった人として尊重するということなのだと思います。
おわりに
幼児期のかかわり方について、いくつかの私論を述べましたが、要するに、幼児期の大人のかかわり方が、その子どものその後の人生に大きな影響を与えるということです。子どもには、今を、そして将来を豊かにより善く生きてほしいというのは大人の共通する願いであると思います。ですから、親を中心とした大人は子どもと向き合い、真剣にかかわっていかねばなりません。そして、そのことが子どものためであると同時に、大人自身のためでもあるのです。子どもの育ちを支えると同時に、われわれ大人も実は子どもから沢山学んでいるのです。子どもとともに暮らすことの有意義さを大人はもっともっと自覚すべきです。しかし、政治家は、子どもを親から離して、親が安心して働ける社会を構築しようとしています。保育所を整備していくことを喫緊の課題としています。それはある意味では重要なことだと思っていますが、現在の喫緊の課題は、人は幼児期をどのように過ごすことが大切なのかを考え、乳幼児期を家庭教育を中心として、豊かに暮らせる社会を構築することだと思います。