数年前、デンマークの首都コペンハーゲンの美術館でムンクの絵「叫び」を見たときのことが忘れられない。夕焼けの空を背景に、お化けのような顔が口を開けて何かを叫んでいるあの絵である。グロテスクではないが、奇妙な絵で一度見たら忘れられない。かと言って、いい絵とも思っていなかったが、実物を見て、その美しさに驚いた。背景の夕焼けの柿色がかったピンクの空が、本当に綺麗なのである。こんなに綺麗な色だったのかと感激し、ムンクの絵の価値は、この色にあると思った。
外へ出て、(ムンクの絵の公開を広告している)ポスターを見て驚いた。色が、まったくと言ってよいくらい違う。売られていた絵はがきの色も違う。パンフレットや画集の絵を見ても違う。あの実物の絵の色は、あの絵にしかない色なのである。東山魁夷の絵の青く輝いていた色が、画集などでは見られない色であることに気づいたことがあるが、ムンクの絵の色は、まさに実物と「写し」の差を見せつけるものであった。「本物を見ろ」と言われるのを聞いたことがあるが、その意味が実感できた。教科書や画集の絵を見て過ごしてきているが、やはり、本物を見ないと、本当の美しさは分からないのだと知った。
そう思って振り返ってみると、私たちは「写し」に接しているだけのことが多いことに気づく。定年退職後暇ができて、月に1度ほど音楽会に行くことにしているが、それまではレコードやCDを聞いて音楽を鑑賞するだけ、つまり、「写し」に接するだけであった。それでもメロディーを楽しみ、音楽の美しさを味わい、それはそれでよかったのであるが、生の音楽を聞くことを増やしたことで、「写し」を聞くこととは違うことも身をもって知った。というのは、はじめの頃、レコードやCDで聞いた音楽が本当の音楽のように感じている自分がいることに気づいた。聞いている本物の音楽と、レコードを聞いて感じたこととが違うと、本物の方がおかしいのではないかと思っている自分がいた。ステレオで聞いていた音楽と、目の前でオーケストラで聞く音楽との違いを感じると、ステレオで聞く音楽の方がいいと思っている自分がいた。スピーカーを通して聞いたステレオの音よりも、実際のオーケストラの音はあちこちから聞こえてくるが、そのことに違和感を感じている自分がいた。演奏者が見えるので、音がそれぞれのところから出ていることが分かるために、一層ばらばらに聞こえてしまうというようなことも経験した。でも、ステレオでは再現できないようなかすかな音、会場が張り裂けるのではないかと思われるような生の大きな音に、ステレオの限界を感じた。楽器の音色の違いもはっきり分かった。本来なら、まず生の演奏から聞き始め、あとでレコードにすべきであるはずなのに、「写し」を聞いて、それが本物であるかのように思っていたのである。
このことは絵や音楽だけではない。私達は、いろいろな情報をテレビや写真、本を通して得ているが、それらの多くが「写し」である。世界遺産もテレビや本で見ることができるが、やはり実際に見るのとは大きく違う。中近東の砂漠の中の世界遺産もいくつか見てきたが、感じがまったく違う。見上げるような神殿の高さ、広く広がる建物の並びの壮大さは写真では分からない。実際に見た後ならば、写真を見て、実物を見たときの感動を思いだすことはできるが、写真を見ただけでは、その感動は生まれない。
そう思ってみると、教育が「写し」によって行われていることの問題に気づく。視聴覚機器が普及し、インターネットも使えるようになると、情報を容易に手にいれることができるようになるが、それですませていてよいだろうかと思う。もっといけないことは「人間が生きる」とはどういうことかも「写し」ですましているのではないかということである。本来、人間は自然の中で生きているものである。生の人間と人間が付き合って、お互いによりよく生きる努力をしている。とすれば、自然の中に生きる動物としての生き方も見せなくてはいけない、感じさせなくてはいけないと思う。時間や労力や手間のこともあって、林間学校や海浜学校などの行事が減らされているように聞く。生の人間と生の人間との付き合いも少なくされているようである。携帯では話せても、面と向かっては話せない子どもがいるというが、「写し」を伝えて「写し」を受け取ることで、人間としての付き合いが進められるようになっているとしたらおかしい。それが、幼児虐待、引きこもり、いじめ、変な殺人事件が起きる素地になっているのではないかと思う。
もっと言えば、本物の人間に接することが少ない。毎日人間と付き合っているではないかと言われるかもしれないが、それは違う。絵について言えば、どんな絵を見てもいいのではなく、いい絵を見ることが大切なように、人間としてすぐれた人間に接することを大切にしなければならないと思う。若い頃、私の恩師は「いい人に会え」と言って、すぐれた人が来られたときには、同席できるようにしてくれたが、功なり名をとげた人と接すると、気負けする力を感じたことを思いだす。
子どもを、そういう人物に接するようにすることはできにくいであろうが、教師それぞれが「人間として立派に生きる人間」として子どもに接することはできる。大変厳しいことであるが、教師の仕事は、教えることの前に、「本物の人間であろうと努力することにある」と考えてみるとよいのではないかと思う。いつでも人のお手本となれる人間であることは難しいが、そうなるように努力することはできる。子どもは、その姿から何かを学ぶにちがいない。
薫陶、そうありたいものである。