内閣府所管 公益財団法人 日本教材文化研究財団

研究紀要 第41号
特集:「思考・判断・表現」の評価のあり方I

「教える」こと
公益財団法人 日本教材文化研究財団理事長
東京学芸大学名誉教授

杉山 吉茂

授業研究会などに行って授業を見せてもらうことがあるが、この頃「この人は教えることをどう考えているのだろうか」と思わされることがある。というより、最近は「人々は、教えることをどう考えているのだろうか」とよく思う。「教える」ことが、自分の考えていることと違っていると感ずるからである。話をしても、受け入れられていないように感じることも多い。どこかがずれているように思うのである。

その一つに、学習指導要領に示されていることを伝えることが学校教育の役割だと思っているようだということがある。それは当然のことであるが、教えればよい、伝わればよい、としか考えていないことが気になるのである。知識を知ればよい。技能を身につけていればよい。知っているか、できるかを調べるテストでよい点を取ればよいとしか考えられていないように思われるような授業を見ることがよくある。

私は、ただ伝わればよいだけでなく、それが子どもにとって価値あることであると分かるように伝えたいと思う。学習指導要領に示されていることは、子どもに価値あることではないのかと言われるだろうが、将来価値が分かるのでなく、子どもが学習しているそのときに、子どもに分かってほしいと思う。ことがらを分かりやすく教えてくれているが、それを学ぶことのよさを伝えようという気持ちが感じられないことが多い。

「教える」ことについて気になることのもう一つは、「知識は言葉で伝える」ものと考えられているということである。知識はそうして伝わるのであろうが、能力的なことは言葉では伝わるまい。算数・数学は、考える力を育てることが一つの目的になっているが、考え方を言葉で伝えれば、考える力がつくものと考えているような教え方をする人がいる。言葉では伝わらないものもたくさんある。

言語活動を大切にしようと言われるようになって、その傾向が一層ひどくなっているように思う。音楽や絵画を見て、感じたことを言葉で表現させようと言われているのを聞いたことがあるが、それらのものは、言葉で表現して伝わるものであろうか。それぞれの作品の言葉での表現の仕方を教えるようなことになりはしないだろうか。

算数で繰り上がりのある計算を考えるときに、言葉で「十のかたまりを作るようにしよう」と教えられるが、それだけで早く計算できるようになるわけではない。たとえば、9+3を考えるとき、こどもの頭の中の9のイメージが図1のようであれば、十のかたまりを作るには一つ一つ数えて十を作るしかない。


(図1)

しかし、9のイメージが図2のようで「あと一つで十」というイメージをもっている子どもならば、すぐ3のうちの1を9に加え、十二と答えることができる。


(図2)

計算がよくできるようにするためには、そうした数のイメージをもたせることの方が肝心で「十のかたまりを作る」ということを覚えることではない。これに限らず、最近、言語活動を重視しようとするあまり、言葉に頼りすぎるように思う。ときには、自分で考えるのでなく、言葉での表現の仕方を覚えさせるようなことが行われているようなこともあるように思う。

そのように考えているとき、たまたま「チンパンジーに学ぶ」という論説を見た。

ある地域のチンパンジーが、石でナッツを叩いて割って食べるというのである。これは本能ではなく、子どものチンパンジーが大人のチンパンジーがしていることを見て学ぶというのである。はじめのうちは、ただめったやたらに石を打ちつけて、実がどこかに飛んでいってしまったりするなど失敗が続く。でも、うまく行かないと、なれた手つきで実を割る大人のところに歩いていって、じっとその作業を見学する。そうして、ひとしきり大人の作業を観察すると、子どもはまたもとのところに戻って、新たに試みを始める…。赤ん坊時代から長い時間をかけて練習をつみ重ね、早い者で三歳半位、遅い者では六歳頃になって、ようやくナッツ割りの技術が身につくという。

チンパンジーは言葉は使わない。大人のしていることを見て学んでいる。言葉がなくても学べるのである。人間でも同じだと思う。人間は言葉を使って教えているが、子どもは、大人の姿から学んでいることも多い。出典は忘れたが「子どもの好きなこと」として「真似ること」「競うこと」「少し難しいことへの挑戦」「認めてもらうこと」をあげ、「子どもの好きなことをさせてあげること」が「教える」ことだと考えたいという話を本で読んだことがある。

私は篠原助市の言っていることを踏まえ「授業は、個人内で行われる思考が外に現れたものであり、そこで行われる外的な問答、対話が内的な思考を育てる」と考えているのであるが、考え方を言葉で教えるよりも、教師が問い方を示す方がずっと効果的だと考える。教師の問いかけ方、話の進め方から子どもは学ぶ。とするならば、考え方を言葉で教えることを考えるのでなく、教師が考える姿勢を見せることが、子どもの考える力を伸ばす力になる。そのためには、教師自らが考える人でなければならない。

チンパンジーの子どもは、言葉で教わって学ぶわけではない。ナッツを自分で割って食べたいから、真似ることにより自ら学んでいる。学ぶことの価値を知っているから自ら学ぶ。大切なことは、学ぶことの価値を子どもが知ることである。教えるのでなく、子どもが学びたくなるような姿を教師が見せることが肝心である。子どもが真似をしたくなるような人間となるよう心がけることも大切であろう。


〈引用文献〉
長谷川三千子「チンパンジーに学ぶ」(パポテ no.85)新学社 社内報2011